‘マリみて’ タグのついている投稿

コミケのこととか、そのほかとか。

2011年1月4日 火曜日

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

さて、昨年のコミケ話をまとめておきます。

・むげんれんさ「お姉さまのマカロン」寄稿
 寄稿を決めたのは、たしか12月に入る前だったか。
 今回、Trade-Wind新刊で使う予定だったネタをここに突っ込む。

・Trade-Wind「カラスとシトラス」執筆
 いつもどおりの形式でSS本を作る。
 ネタに詰まってgdgdしていたらスケジュールが崩れてしまい、本編書き終えたところでコミケ1日目が終わっていた。
 その後、あとがきという名のページ数調整と、表紙イラストを書いて、印刷したら夜が明けていた。

・コミケ一般参加
 上記理由にて1日目はスルー。非電源ゲームを見に行けなかったのは残念だった。
 2日目は、マリみて島をちょっと回って帰ってきた。

・コミケサークル参加

 3日目はおとボクジャンルにてサークル参加。
 半分寝ながら売ってましたが、お姉さまのマカロンばかり売れていた印象がありました……しかし。
 お姉さまのマカロン:33部
 カラスとシトラス:21部
 ……意外に売れていた。
 皆様、ありがとうございます~。

・購入関連
 おとボクは、島だけ入手。東は当初から望み薄と判断して切ったのが正解。

 アイマスDS関連は、事前情報をあえてシャットダウンして、西アイマス島&壁を延々と回り、ほくほくしてました。
 1/10ライブの関連でお世話になってる朝凪日向Pの委託本も入手したので、モンハンが一段落したらほくほくする予定。

・その他
 コスプレは完全にスルー。モンハンのせいで(ぉぃ)ダイエットに失敗したため、無理して女装する必要なしと判断。
 結果的には大正解で、男子更衣室は上から丸見えの状態。男性キャラコスならともかく、女装はやばかった。
 ……コスプレしたいキャラがことごとく女性or女装男子ってどういうことなんだ、俺。

・その後という名前の言い訳
 三が日は、ほとんど実家関連+モンハンでつぶれていました。
 村クエは最後の1個を残して全部クリア、集会所はキークエだけつまんで上位(HR4)突入したところ。

 リモートプレイについて、XLink Kaiのユーザ登録に失敗しまくってましたが、MHPTunnelという代替案を見つけたので、いい感じにプレイできました。
 アドホックパーティを使うのが王道とわかりつつ、PS3なんて持ってないよと。

まっすぐ

2009年8月14日 金曜日

ただ、ひたすらにまっすぐ突き進む。
それだけが、私に残された道。

<8/11>
 会社が終わり、翌日から夏休みのところ、オジャ先生が東京に戻ってきたということで飲みに誘われた。タイミング悪く、結果としてサシ飲みになったがこれが存外いいものだった。
 お互いの近況を愚痴り合ったりしている中で、お互いをよく知る仲間は良い物だと改めて感じることができた。

<8/12>
 会社の後輩たちと、いつものモンハン集会。コミケの話をしていると、どうやら被る企業スペースがあるようで、軽く情報交換。

<8/13>
 おとボク関連の方が横浜で開港150周年記念バーガーを食べに行くというのでご一緒してみた。
 モスだったが、普通にうまかった。パンがいいね。

<8/14>
 一日目。4時起き、4:58始発で6:17着。蒸し暑かったが日当たりがなく助かった。

 初手は言うまでもなくRegista・Will。むろんお目当ては表が兄、裏が妹の抱き枕カバー。
 結果としては、3人待ったくらいで速攻買い切れたので大成功といえる。

 2手目はVIEWS/ARIELWAVE。私の目には綾人きゅんラスティしか眼中になかったが、ブースの本命は真・恋姫とSHUFFLE!牌。
 11:50~13:20くらいだっただろうか、2時間半ほど消費したところで、綾人きゅんのみゲット。本気で「のみ」は寂しかったので、真・恋姫のグッズも入手。

 ここから(西)Wizブレ→マリみてで直接知り合いサークル&おとボク関連サークルだけ→(東)ちこぷりんかんぱにぃ→キスしてロンリネス(取り置き)→(西)マリみて残りサークル、の順番で制覇。
 時計が相当やばかったので最低限の挨拶しかできなかったのが心残り。
 キスしてロンリネスさんをクリアするのが14時リミットのところ、13:50くらいだったので冷や汗かいた。

 その後、蓉子様同盟の一部メンバーで飲む。オタやめて結婚し、リア充してる方から話を聞くと、結婚とは運とタイミングのみで決まるとのこと。話の流れからは、我が道を行くスタイルが運を引き寄せたのだろうと解釈できた。

<おまけ>
 せっかく買ったiPhone、つかえねーっ!

# 解説
# iPhoneはスマートフォンとして、webブラウジング機能すなわち、「オンラインデータの扱い」に非常に長けています。
# このとき、コミケには大勢の方々がいらっしゃるため、携帯電話が非常につながりにくいです。
# したがって、回線が繋がりにくい以上、コミケでデフォ設定のiPhoneは使い物になりません。
# むろん、普段であれば回線めっちゃ繋がるのですごくいいデバイスなのですが……
# あとはオンライン/オフライン遅延同期でのドキュメンテーション作業を容易にするアプリを買うくらい……いいのあるのかな?

3月末から4月初頭にかけて

2009年4月5日 日曜日

・CBOオフ会、二日目@日曜日夕方
 地方のCBOメンバーが東京に出てくるたびに実施されるオフ会、二日目は少しメンバーが入れ替わる。
 CBOメンツとの合流ポイントとして、西府駅の存在を確認。あの周辺、今のところなんもない。
 その後、新宿へ行き都庁を見学……しようとしたが、入り口のツアー客が並びすぎていたのでやめ。眺めるだけにした。
 新宿駅に戻って、参加者のひとりがE-mobileの新規契約するということで、ついでに冷やかしに。S01SHの動作が遅いんで端末変えたいと言ってみたが、色よい返事は帰ってこなかった。残念。
 焼鳥屋で食事。会話はネタだったが、普通においしかった。
 その後、記念写真をとって解散。みんな帰ったところ、私ひとりだけ新宿に残る。

・新宿コスメイト視察@日曜日夜
 んで、一人になったところで、コスメイトの新宿店を視察。
 ビルの9階ということで、入り口は目立たないがわかりやすい看板があったので迷うことはなかった。
 品揃えは、アニメ系が若干薄め(だが、ポイントは抑えている)、ゴスロリが多めに思えた。おとボク制服もあったものの、値段が安かったので品質には目をつぶりたい。
 ……ただ、フロアつづきの場所に、女性の着古しを置いたアダルトグッズの店とかやめて欲しいと思う。ニーズ違うんだってば……

 その後、とらでマジキューの12巻を買って(←アニメイト予約済みだったので我慢していたが、発送が遅れたので重複覚悟で購入。推測だが、発送遅れは某DVD-BOXの焼きミスが原因と思われる)。

・期末飲み会@月曜日
 このために火曜日は休みを取ってある。
 お茶漬けのおいしい店での飲み会。いい飲み会だったが、「婚活してる?」にはびびった。
 ……確かに、そういう時期なんだよなぁ……積みゲーとか積み小説とか全部片付けてから考えるつもり。消えない可能性については気にするな(笑)

・年休@火曜日
 よくわかる現代魔法の6巻を読了。フォクすけプーかわいいよフォクすけプー。
 アニメが予定されているようなので、こちらも今から期待age。

 その後、家事やって衣装をクリーニングに出して、Linuxに悩んでボク楽をやって一日が終わる。

 以下、土曜日まで仕事、Linux&ボク楽、で一日が過ぎる。

・どようび〜どようび〜
 ご報告のとおり、Linuxでおとボクを動かすことに成功。
 その後、クリーニングした衣装を回収して一日が終わる。
 ボク楽のテアシナリオをクリア。エロゲーらしい急展開には目をつぶるとして、良い感じにシナリオを読み進めることができた。あと、ユウの女装フラグがあちこちにちりばめられている件についてw

・新入生歓迎会@日曜日朝
 寮で10時から開いた歓迎会。
 歓迎会の前に、休みをさんざつぶして議論してきた、寮則変更の決議を通す。古参組が基本的に反対であったところ、新寮生を使って賛成数を稼いだのは卑怯かなとも思ったが、採決するタイミングがこのタイミングしかなかったのでしゃーないと割り切る。
 その後、全体での注意事項を経て、部署別に分かれての新入生歓迎会。……古参組、誰も参加しないのな。いや、確かに参加の必要はないと言ったけどさ、近しい代の人間は自主的に残ったぞ。つーわけで、採決の罪悪感もきれいに吹っ飛ぶ(ぉぃ)。
 歓迎会は、かるく自己紹介したところで11時半。だらだら立ち話しててもむなしいので、軽く質問を受けてから飯を食いに行くことにした。
 で、近所のそば屋に10人くらいで押しかけ、昼飯をいただく。昼飯後用事があるからと解放してもらい、イベントに出かける。

・子羊たちの春休み@日曜日昼
 到着したのが2時。コピー本ほとんど終わってるんですがががっ!
 つーわけで、戦果は以下のとおり(順不同、サークル名は敬称略)。
 成功;野いちごチャンネル既刊&新刊、NAONORTH新刊、ドム御一行既刊、マズルカSTEP新刊、美術部新刊、異界の箱新刊。
 掘り出し物;まじっく・すくえあ新刊オフセ、イヌニンゲン新刊コピー、SAGA Angel新刊オフセ
 失敗;ドム御一行新刊、クレシェンド新刊、ボナンザ新刊、SEVENTH Revolution新刊、上海蜜蜂新刊
 その他;キッドさんに挨拶できた。他の蓉子様同盟メンバーは見かけず。時間遅かったか?

 「それ掘り出し物おかしいだろ/サークル●●さんが失敗扱いじゃないの変だろ」というツッコミについては、今回ほとんど準備できなかったので指向性ずれてます、ということでご勘弁。

・アキバショッピング@日曜日夕方
 その後、マリみて釈迦みての新刊を買いに、アキバに向かってアニメイトに寄ってみると、フロアが広くなっている。
 というわけで、軽く全部巡ってみたところ、エロゲーの扱いが良くなってることに気がつく。同人だと、某00のBL育成ゲーとか。

 おとボクのグッズもいくつか復活していた(貴子さんのファスナーアクセサリーが復活していたのはびっくりしたが、紫苑さまでも奏ちゃんでもないのでスルー)。で……メールガードも復活していたようだったが、再版するならサイズ変えようぜorz(←ケータイの画面サイズが大きくなったせいで、はぴねす!のメールガードが使えず困っているひと)いあ、各所の在庫をかき集めたなら仕方ないんだが。

 その後、とらの店頭でComic1のカタログを購入して、各所ふらついて帰宅。

★今やってること★

・Linux環境でおとボクを動かす(優先度:最高→低)
 昨日のエントリのとおり、Gold確定。技術的に難しいところはもうないので、あとはクリアするだけ(と思っている)。
 FreeBSD? OpenSolaris? 何のことかなぁ……?

・ボクみてコスプレ関連片付け(優先度最高→高)
・部屋の共用部片付け(優先度最高)
 衣装はクリーニング済み。wigは自室に引き上げてブラシ待ち。共用部片付けは、次の年休取得時に。

・4月アニメ録画予約(優先度最高→済み)
 現状、12番組確定(笑)ゆっくり見ながら減らしていく予定。

・某公式サイト(優先度高)
・SHAPEWALKER発注(優先度高)
 これも次の年休取得時に。

・ボク楽プレイ(優先度中→最高)
 途中で止めないよう、優先度を上げて対応。

充実という言葉が恨めしい

2009年3月16日 月曜日

今日は……やることが多すぎた。

・寮の会議
 午前いっぱい使って、決めるもん全部決めた。

・コスカ
 会議終了直後に向かい、13時〜14時くらいコスカにいた。この時間帯、右胸の痛みがいちばん強かったため、はなさんに声をかけられたもののまともに反応できず。すみません orz
 その後、その場で合流したにぅいーなさんと連れだってアキバへ。

・アキバ
 ベローチェでにぅいーなさんのPCの動作を見て、250GBプラッタのディスクが欲しくなったのでH社の500GBのHDDを購入。
 その後、秋葉原製作所なる場所で、ネームを仕上げる。「できること」については自宅のほうが優秀だが、誘惑が圧倒的に少ないのが魅力。場所代が2時間15分で1000円と考えると高いが、ネタ4つで1000と考えれば安いもの。
 下書き・ペン入れでも使いたいなぁ……

・夕食
 ヨドバシの上で、本を買ってから夕食。とんこつラーメンうまー

アカシウス寄宿舎学園
 ボク楽イベントやってたんで、とりあえず行ってみた。
 時間チャージ制(300円/10sec.、60分以上10分単位)で70分滞在、ボク楽の騎士団制服がかわいかった、そして「蝶の好む花」と「薔薇の妖精」がおいしかった。「蝶の伝説」はフォンダショコラだが、そもそもショコラ自体が口に合わなくなってる orz
 公開録音を30分ほどまったり聞いてから、自分の名前(カタカナ5文字以内)と言われて十数分悩む。悩んだ末、蔵人(くろうど)をもじって「クラウド」と名付ける。クラウドコンピューティングとかクラウドソーシングは意識したが、FF7は眼中になかった。

・帰り道
 池袋からだったので、池袋→(西武線)→秋津→(徒歩5分)→新秋津→(武蔵野線)→北府中、で安泰だろうと思っていた。
 が、秋津→新秋津、で道に迷い、結果として、池袋→(西武線)→秋津→(徒歩85分)→小川→(西武線)→国分寺→(中央線)→西国分寺→(武蔵野線)→北府中、というわけのわからないルートをたどることに。

 某チャットへの報告ミス多発といい、今日は疲れてるなぁ……って今週ずっとそんな感じじゃね?

・体重 73.6kg
・歩数 28649(26824+1825)歩
 ……うん、こんだけ歩いても体重減らないんだね orz

コミックマーケット 二日目&三日目

2008年12月31日 水曜日

12/29 可南子〜闇に降り立った天使〜
10836歩-7.4Ex, 14655歩
コミケ二日目。東に9:30到着したところ、10:30には入場していた。はええ。
 マリみてを漁るのが本日の目的。初手の忙しい頃にべるさんにお会いしたが、こんなときにまともな挨拶が出来るわけもなくさっくりと別れる。
 荷物が多くなっていて腕が痛くなってきた頃、美術部さんに並ぶ。そこで、はなさんが手にしていたのは巨大な可南子の紙バッグ。手持ちアイテムを一つにまとめられる効果は絶大と判断し購入。「ご自宅まで大切にお持ちください」「今使っちゃ駄目ですか?」「全然OKですよ」というわけで早速利用したおかげで、荷物をなんとかまとめることができた。
 帰りは水上バス。今回は早めに座れた(出航まで時間があった)ため地ビールにチャレンジ。うめぇ。ただし、ちょうど酔いが回ったところで船旅終了。うーん、もう少し酔ったまま観光していたかった。

12/30 奏〜いもうと〜
 14936歩-9.9Ex, 20372歩
 マイナス1時起き。計画は、音を立てて、崩れた。
 突如発生した売り子の仕事。やる気が出ないので、とりあえずコスプレして気合いを入れてみる。瑞穂ちゃんのコスプレだ。
 ところが、まだやる気が出ない。自動的にちこぷりんかんぱにぃ→おとボク島とすすみ、新刊をひたすら買いあさる。その様子はゾンビがごとし。祭屋さんの仕込んだネタに気がつくだけの注意力も残っていなかった。
 さらにやる気のない状態は続く。一般参加者の方がお客さんで来ているその場で、対応もロクにせずコピー本のブックカバーを折り続ける瑞穂きゅん。最低だ、俺って……
 それでも、れんぢ電子さん(新刊を委託し90部販売いただいた+100円玉釣り銭1本)、むげんれんささん(100円玉釣り銭2本)他各位のご助力あり、なんとかしのぎきる。
 さらにご助力いただいたところでコスプレ撮影会を実施。知り合いのドーラン奏ちゃんを見つけペア撮影。さらに、場所を移してソロ撮影(←私のコスプレを見たいという人が某チャットにいるため。ナルシストなんかじゃないんだからねっ!)。この間、コスプレ広場を第1→第2→第1と渡り歩くが、上記奏ちゃん以外のおとボクコスを見ることはできず。おとボク島周辺には結構いたんだけどなぁ。

 打ち上げ。いろいろと交通の便を考えたところで、八重洲地下街での食事→飲み会、という形に決定。
 三日目は水上バスじゃなくて、ふつうの急行バス。発車間隔があまりに短く驚く。
 八重洲地下街で豚骨ラーメンをいただき、チャーシューのうまさに感激する。
 その後お酒を入れたところでぶっちゃけトーク実施(自動車運転する方はお酒飲んでいなかったけど)。オンラインにした瞬間炎上しそうな危険トークも飛び出すなど、オフラインならではの充実した酒席を楽しんだ。(ちなみに、祭屋さんのネタに関する指摘があったのもこの酒席。ゆっくり見れば気がつくものだったわけだ…… orz)
 冬コミの問題はいろいろと引きずるものもあるが、久々においしいお酒を飲めました。年末年始も忙しそうだけど、それを乗り切れるパワーはおとボクからもらえたと思う。

 体重 71.0kg
  まあ、飲んだし。

誤植訂正のおわび(12/31)
 可南子を可奈子と誤記した点を修正。両キャラクターのファンのみなさまに不快感を与えた点をお詫びいたします。申し訳ありませんでした。

「百合」の言葉を定義する ―― clarify “yuri” as a difference with “sho-jo ai”

2008年12月18日 木曜日

 本章は2008年5月より執筆を開始したものですが、「百合」への理解不足が原因で完成が遅れてしまったことを、まずお詫び申し上げます。

 さて、この間、本コラムを見ていただいた方の日記にて、次のようなコメントをいただきました。

『マリみて』は百合(恋愛物)でなく友情物である。 それの唯一かつ成功した模倣は『おとボク』って論。
友情物であるのは分かるが、それが即百合でないというのは 定義の問題か?
――TomOne の ねもと6月11日の日記より

 このご指摘はごもっともであり、本来では最初に解消すべき疑問点でした。
 しかし、「本題と少し遠い/非常に難しいから」と後回しにしていたことをお詫びするとともに、本章では、この問いに答えるべく、百合の「定義」についてじっくりと考察していきたいと考えています。

5.1 百合論 ――百合とレズは何が違う?
 web上で「百合」を扱う論説では、「百合」と「レズビアン」の区別は明確に存在しているとされる。しかし、私は寡聞にしてその差を定義している論説にお目にかかったことはない。百合とレズビアンの差を語るサイトは多くあるが、ケーススタディに耐えうるだけの頑健さを持つだけの論理性を持たず、それゆえ、これらの差の定義に失敗している印象しか残らない。
 一つの言葉は多数の意味を持ち、その解釈は人によって多種多様であることは言うまでもない。しかし、言語の定義を自らの感覚のみに任せ、自らの用いる単語の定義を示さないことは、言葉の曖昧さに対する責任をすべて読者に押しつけることとなる。
 これは、読者のための論説としては致命的な失敗――あるいは、論者失格の烙印を押されるべき傲慢――と言える。
 したがって、まずは私なりに、「百合」という言葉を再定義することから始めたい。

 ただし、正しく定義するということは、それ自体が非常に難解であり、数多くの論者がこの点を曖昧にしたまま気がつかないことはある意味致し方ない部分もある。

なにかを定義するとき、属性を挙げて対象を記述することは比較的たやすい。しかし、対象の本質を明示的に記述することはまったくたやすいことではない。
――福岡伸一「生物と無生物の間」(講談社現代新書,2007)

 話の前提として、現在この二語についての現状を、私の視点から確認したい。
 「百合」と「レズビアン」の差について、現状統一した見解は存在していない。しかし、百合とレズビアンという二つの言葉について、厳然と区別している論者は多く存在している。
 もっとも多い区別としては、百合は精神的なもの、レズビアンは肉体的なものとする考え方である。要するに、性的関係を持った場合はレズ、持たない場合は百合とする分けかたである。
 また、これに関連し、レズビアン関係のもつ「女特有の執念」が存在しない同性愛が百合とされることも多い様子である。
 あるいは、単純に「二次元(アニメ、アダルトゲーム等)」を百合、「三次元(現実、あるいはアダルトビデオ)」をレズビアンと分ける場合もある。
 もちろん、最大の派閥は「百合」と「レズビアン」を全く同じものとして扱うものである。本稿でも、前章まではこの定義を採用している。しかし、この定義を採用してしまうと、百合論において、百合とレズビアンを区別する理由――あるいは区別する目的――が消えてしまうため、本章でこれを採用することはできない。

5.1.1 百合の再定義 ――甘酸っぱければそれでいい
 百合という言葉を再定義するにあたり、「乙女はお姉さまに恋してる 櫻の園のエトワール」(以下エトワール)の感想文のなかで、注目すべき一節を引用する。

お嬢様学校で百合モノという幻想を恥ずかしげも無く形にしたものです。
(中略)
ただガチな百合モノというよりはどちらかと言うと、女子同士の甘酸っぱい先輩後輩って感じでした。
――masa-no-ji、「空の灰皿」記事 [ライトノベル]『乙女はお姉さまに恋してる』読了より

 これは、エトワールは百合ではないとする感想であるが、そのいっぽう、同書は百合の傑作とする感想も多い。未定義語である「百合」か否かの議論は横に置くとして、ここで注目すべきは、「甘酸っぱさ」というキーワードである。
 作品世界におけるキャラクターの感情をなぞったときに、甘酸っぱさを感じるか否か。百合の名作と名高い(が、私は第1章で百合ではないとしている)「マリア様がみてる」シリーズ(以下マリみて)においても、「先輩後輩の甘酸っぱさ」を感じさせる表記は数多く、また、「友人関係の甘酸っぱさ」も同様である。

 したがって、本章では、百合を「甘酸っぱさを本質とする女性同性愛」、レズビアンを「甘酸っぱさを本質としない女性同性愛」と定義する。

 この定義は、「性的関係の有無」、「女特有の執念」、「二次元/三次元の区別」などの区別を大まかには含むこと、ただし完全には含まないことに注意する。性的関係をもつ人間関係は多くの場合、甘酸っぱさを感じる人間関係よりずっと近い距離にある。独占欲に支配された後には、葛藤により生まれる甘酸っぱさは存在できない。また、現実世界で甘酸っぱさを感じるのは恋愛をしている当人だけであり、性的交渉を主眼とするアダルトビデオに甘酸っぱさを取り入れるには冗長が多すぎる。

 さて、マリみてやエトワールが「百合でないのに百合と評価される」ことについて、以下の推論が成り立つ。
 1. 友情や先輩後輩の近しい関係は甘酸っぱさをふんだんに感じさせる。
 2. 女性同士の近しい関係性である。これは、女性同性愛を示唆するような誤読を招く。
 3. 1.および2.より、「女性同士の近しく甘酸っぱい関係」を「甘酸っぱさを本質とする女性同性愛」と取り違え、百合と解釈してしまう誤読を招いている。

 この誤読は、第1章に述べた「百合ではない」が「百合としてみることが可能」な解釈にあたる。

5.1.2 百合の公理系 ――甘酸っぱさって何なんだ?
 さて、上記の「甘酸っぱさ」という言葉について、定義を与える必要がある。
 百合論における甘酸っぱさを定義するにあたって、一度辞書より定義を引く。

あまずっぱ・い 5 【甘酸っぱい】
(形)
(1)甘みと酸っぱみとがまじった味やにおいである。
「―・いパイナップルの香り」
(2)こころよさに少し悲しみを伴った、やるせない気持ちである。
「―・い初恋の思い出」
[派生] ――さ(名)
(三省堂 大辞林第二版; goo国語・新語辞書より)

あまずっぱい 甘酸っぱい
sweet and sour; tart.
・〜青春の思い出 bittersweet memories of one’s youth.
(三省堂 EXCEED 和英辞典; goo和英辞書より)

 このとおり、甘酸っぱさの語そのものは、恋愛と直接結びつく定義ではない。ただし、用例としては恋愛や青春といったものに多く用いられている様子である。

 ここから、甘酸っぱさについて、考えていく。
 やるせなさと書かれているところから、甘酸っぱさ人間関係を示す語であることは明白である。また「悲しみ」とある点から、近しい関係であることもわかる。すなわち、甘酸っぱさとは恋愛や友情など、近しい人間関係に適用される語である。辞書を見ると、甘酸っぱい、という語には初恋や青春などの例が引かれていることからも、納得できよう。

 このとき、甘酸っぱさについて二つの意味を見いだすことができる。
 (公理系A)甘酸っぱさとは、青春を構成する人間関係における複雑な感情を示す。
 (公理系B)甘酸っぱさとは、恋愛を構成する人間関係における複雑な感情を示す。

 いちど、百合の定義を少し広げて、「甘酸っぱさを本質とする女性間の人間関係」と再定義し、これを広義の百合とよぶ。
 確認まで、本章では百合を「甘酸っぱさを本質とする女性同性愛」と定義している。以降、これを狭義の百合とよぶ。
 広義の百合の定義を用いて、公理系Aを用いて意味を解釈すると、「青春としての女性間関係」となり、これは狭義の百合とは一致しない。この意味を用いると恋愛ばかりでなく友情や近しい上下間関係なども本定義に吸収されることから、百合とレズビアンは明確に異なる意味を持つ。通常用いる「青春」との差違は、人間関係に男性を含むか否か、として明確に分離できる。
 同様に公理系Bを用いて解釈すると、「恋愛としての女性間関係」となり、狭義の百合と意味が一致する。このとき、レズビアンとの差は「複雑な感情」の有無にとどまるが、近しい人間関係はそもそも複雑な感情を持つのが一般的のため、レズビアンとも意味が一致する。

 次章では、公理系Aを用いて再定義した百合を「青春としての百合」、公理系Bを用いて再定義した百合を「恋愛としての百合」とよぶ。
 このとき、百合・レズビアン対比論を含む百合関連の論説においては、百合を「青春としての百合」に、一般的な文脈においては、百合を「恋愛としての百合」に定義づけている、と推定できる。
 もちろん、「恋愛としての百合」は上記の通り「レズビアン」と同じ意味をもつ。

5.1.3 百合の定理系――実例で考える
 以上で話のほとんどは終わりであるが、定義ばかりで退屈された読者も多いと思う。
 そんな、「だから何?」の声にお応えして(←いつアンケートとったよ?)、この定義で説明できることの一部について、例を挙げて説明していきたいと思う。

 (例1:マリみては百合か?)
 第1章に提示したとおりマリみては友情を中心とした人間関係を描いているため、「青春としての百合」であればYES、「恋愛としての百合」であればNOという結論を得る。
 本章以外において、本論説は百合を「恋愛としての百合」と定義し論述しているため、論説全体における不整合は存在しない。また、マリみてを百合の金字塔と定義している各種論説も、百合を「青春としての百合」に定義すれば整合する。

 (例2:おとボクは百合のようなものでいいのか?)
 第1章に提示したとおり、おとボクの場合、実性別に目をつぶれば「青春としての百合」「恋愛としての百合」の両方に当てはまる。このときに問題となるのは、瑞穂が男性である点だが、この点の対応も第2章・第3章で確認済み。

 (例3:ストパニを百合と定義したくない人々がいる)
 ストパニの場合、「恋愛としての百合」については問答無用だが、「青春としての百合」について疑問点が少し残る。この疑問点については、主要な人間関係を「擬似的な恋愛」として表現する同作品の性質から、青春としての価値観が損なわれている可能性について指摘することで疑問点を明白化できる。

 (例4:「百合」の議論が紛糾する理由)
 世の中で「百合」をめぐって議論が紛糾している理由については、上記の定義を比較すれば明らかであろう。複数の論者が同じ言葉を巡って、「恋愛としてOK」「青春としてNG」など、定義のすりあわせを実施することなく自前の理論を語り続けているのではきりがない。
 筆者の感触では、男性の場合は人間関係を重視するタイミングが成長の遅いタイミングであることから、恋愛と青春の共通点が少ない。このため、男女間の関係については、恋愛と青春の区別は比較的容易である。
 しかし、女性間関係の場合は早くから人間関係を重視し、人間関係のスキルを磨くことが重要であるため、人との親しいつきあいかたについてが青春の主眼となる場合が多いと推定される。このとき、友情と愛情の境界を考えるなど、青春と恋愛のオーバーラップが多く、また境目の曖昧さが問題となりやすいため、「百合」の用語定義がぶれやすい。
 蛇足ながら、この議論ではもちろん、初恋などの恋愛と青春を同時に兼ね備えたケースについては考慮の対象外である。

5.1.4 まとめ――感覚は、感覚によってのみ定義される
 本章では、次のことを述べた。

 (1)女性間関係の「甘酸っぱさ」として、百合を再定義した。
 (2)百合とレズビアンを同一のものと見る向きを、甘酸っぱさ=恋愛、の解釈に落とし込んだ。
 (3)百合とレズビアンを異なる用語と見る向きを、甘酸っぱさ=青春、の解釈に落とし込んだ。
 (4)(2)と(3)について例を挙げ検討した。

 これにより、百合という言葉の定義の差を明白とし、議論をわかりやすく整頓することが可能となった。
 なお、「青春」と「恋愛」の個別の用語定義について感覚による解釈の余地は残っているが、個人の認識が感覚によって成り立っている以上、定義の曖昧さはどうしても残る。
 ただし、典型例のみを示し定義を読者に委ねる方法に比べ、曖昧さの原因を追求し、簡潔な定義の中にそれを示していることで、「言葉の曖昧さ」に関する説明責任は果たしたと考えている。

いちど背負った十字架は投げられない

2008年10月12日 日曜日

十月のロザリオ、行って参りました。

・朝〜朝だよ〜
 前日22時には眠かったので寝たところ、10時間睡眠。
 ……いや、最近は無理してた覚えないぞ……(←ここ1ヶ月ほど微熱が続いているひと。自覚症状あったのは9月下旬の1週間強くらいだったのですが……なぜ治らないんだ)

・朝ご飯たべてイベント行くよ〜
 電車の中で、行きがけに買ったサンドウィッチをほおばりながら(←イベント恒例。よい子はまねしちゃダメですよ)、PiOへ向かう。
 マリみての新刊を読み始め、半分くらいまで行く。蔦子さんかわいいよ蔦子さん。

・私の名前、まだ覚えてる?
 会場に入る直前、べるさん@えめらるど☆ふろうじょんにお会いする。前回お会いしたときにも雰囲気が変わったことに驚かされたが、今回はさらに変わっていて、声をかけられるまで判別つかなかった(申し訳ないです)。
 んで、いつものとおり、小西マキさん@野いちごチャンネル、はなさん@美術部(コスプレ売り子さん)に一言ご挨拶して、ぐるぐる回る。
 ……あっれー? べるさんの本があるよ?
 今回は、どうやら一般ではなくサークル参加をされていたご様子。

 他にもぐるぐる回ってみるものの、新刊コピー本はすでに売り切れているサークル多数。マリみてオンリーの宿命とあきらめる。

・春が来て、ずっと春だったらいいのに……
 ぐるぐるまわっていると、見知った顔(とととさん@ドム御一行)が一人でコピー本を作っている。さらに、列が形成されている。
 当然のように、並んだ。買った。ごちそうさまでした。
 少し待つと、新刊が売り切れていたので改めてご挨拶。新刊を増刷したいとのことで、休憩がてら売り子を申し出る。
 コピー終わったところで、とととさんから飲み物をいただく。ごちそうさまでした。

・約束、だよ
 さらにぐるぐるまわりつつまったりしていると、ふとしたタイミングで、とととさん、おずまろさん@クレシェンドとの3人での雑談となる。
 ……主な話題は、某プロジェクトのお話だった。
 入稿仕様に関する問題点の指摘が主で、お二人とも、特にデジタル/アナログ混在データでの解像度仕様に関する不安を口にされていた。コミックなどのデジタルデータにおいては、スキャニングや解像度変更などに伴う画像の不適切な拡大・縮小を原因とする画像の乱れ(モアレ)が極端に嫌われるが、同人誌印刷に対する入稿の仕様としてモアレの回避が難しそうだとの洞察によるもの。このあたりは経験者しかわかるものではないが、お二人ともこの点を非常に不安に思っているご様子であった。
 とくに同人誌印刷では、入稿ミスや印刷所のミスを原因とするモアレは起こりやすい半面、印象の極端な変化を伴うため絵師さま方には特にいやがられるとのことで、「アンソロジーでは、モアレ一つでコミュニティが壊れる」との厳しいコメントもいただいている。

・ボクのこと、忘れてください……
 とととさんの新刊再版も売り切れたところで、Wizブレ新刊を探して寄り道しながら帰宅する。
 家に帰ってmixiメッセージを開くと、とととさんからメッセージが。

で、実は机に同人誌をお忘れになってませんでしょうか?

 ……あーっ!!!!!!!!!! orz

C74は無事終了

2008年8月18日 月曜日

1日目(不参加)
 夕方のおとボクイベント行ってました。
 欲しいのがるい智グッズだけだったので、話を聞く限り参加を諦めて大正解。

2日目(一般参加)
 初手:時華
  コミケ唯一のWizブレサークル。今回のコミケで私が訪れたサークルでは頒布部数が最小と思われるが、印刷の絶対部数が少なかったため、全く読めないサークルでもあった。
  新刊・既刊1冊ずつげっと。こういう小さいジャンルの本には愛があふれている。

 二手目:M駅から徒歩15分
  お次は、今回のコミケで訪れた最大手。小説二冊は読み応えありそう。

 三手目:クレシェンド
  マリみてとおとボクの新刊を同時に出してくるサークル。きっちりゲット。

 以下、マリみてとPC系とぼかろを軽くみて買い物終了。その後にコスプレ広場→企業スペースと見て回り、東マリみてサークルあたりで某同盟の会長と合流。軽くだべって帰宅。

三日目(サークル参加)
 朝起きたら、起床予定時刻を三時間半ほど過ぎていた。
  利点:睡眠時間を確保できた分だけ頭が冴える
  欠点:コスプレ衣装を準備し、身だしなみを整える時間がない
 従って、コスプレは早々にあきらめ、サークルのおつりと共同購入の準備だけして出発。
 今思えば、この寝坊は天恵だった。

 おとボクと無関係の知り合いに、余分なサークルチケットと引き替えに14時以降のおとボクサークルを手伝って貰う約束を取り付けてあったため、チケットを渡して一緒に会場入り。
 おとボク関連の共同購入とりまとめと某サークルの売り子をこなす計画となっていたが、サークル入場時刻を過ぎても主宰が来ない、本が届かない。主宰との連絡手段も持っていないため「販売停止カードもらいに行こうか……」などと思っていたところ、もう一人の売り子さんが本を持ってくる。この時点で9時20分過ぎ。
 主宰が「直前まで作業していた疲れが原因で、自宅で静養している」旨をその売り子さんから聞いたところで、挨拶を速攻で済ませてからサークル設営。
 そこで目に入った、誰も存在を知らない新刊。

 ――待てや。

 新刊の数をむやみに増やして体力尽きるって優先順位違わないか、と愚痴をこぼしながら、渡し忘れた新刊を挨拶した先に渡して、カードを書いたところで準備完了。
 (* コスプレを捨てたことで助かった部分その1、主宰欠席でも、共同購入&9:20からの設営を間に合わせることができた。睡眠十分の頭で、東456ホールへの初期人員配置を不要と判断できたことも大きい)

 最初にごく短時間だけ売り子をしてから、買いに走る。サークル参加の利点を生かし、混雑するにはまだ早い時間で123ホールを片付ける。456ホールの新刊チェックは人大杉で無理だったので、事前チェックできたサークルだけ買って抜け出す。

 戻ったところで、引き続き食事&コスプレ広場の状態確認を実施。軽くぽつぽつと降雨の気配があり、一通りみておとボクコスがいないと判断、さっさとブースへ戻る。
 ブースに戻ったところで、別ルートからおとボクコスプレイヤーさんの存在を知らされる。ここで、昼食の関係上カメラマンを派遣すると人数がショートするが、時刻は13:30くらい。14:00に売り子を手配していることを思い出し、カメラマンとして最適なメンバーをコスプレ広場へ飛ばす。
(* コスプレを捨てたことで助かった部分その2、コスプレを実施しなかったことで雨の判断を適切に実施できた。また、人数不足も発生させることなく売り子を継続できた。コスプレ売り子って案外大変なのよね……)

 その後、15:00頃にカメラマンが戻ってきたところで、買いそびれ一件見つける。この対応を行ったのち、共同購入の精算を開始する。精算完了のめどがついたところで、16:00。
 スペースの撤収は雨と鳥に振り回されたものの比較的順調に推移し、一休み終えてから18:00頃に離脱、東京駅で飯を食う。

 その後、打ち上げメンバーの一人の提案により某女装喫茶にお邪魔し、軽くお茶して帰ってくる。
 なんというか、スナック的? ライブハウス的? そんな感じのノリだった。お茶もおいしかったし、メイドさんたちもヤローなはずなのに可愛かったし、ネタで行くのは悪くないと思うが、ゆっくりとコスチュームやメイドさんを楽しむ、といった雰囲気とはまた一線を画しているように思えた。

 まあ、三日目のトラブルは半分以上予想できていたので、事前に一週間かけて考察してきたNounai緊急マニュアルが生きたことが大きいと思われます。
 この調子でいくと、おとボク島にいる限りコスプレできない気がするが、気にしないことにしよう。

(2) 男なのにお姉さま、男女の恋愛なのに百合? ――see the boy in a viewpoint of yuri, or shojo-ai

2008年3月7日 金曜日

 続いては「『おとボク』が異性愛中心主義を助長するものでないこと」の証明だが、先に着地点だけ宣言しておこうと思う。

 「恋愛は心でする物であって、性別でする物ではありませんよ?」―― 十条紫苑(処女はお姉さまに恋してる)

では、この結論に至る議論を、まずは、マリみてとおとボクの中だけで閉じる議論として行いたい。

 前章で述べたとおり、おとボクはエロゲーである。すなわち、主人公は男で、ヒロインである女の子と結ばれなければ話が成り立たない。しかし、この作品は男であるはずの主人公=プレイヤーに、徹底的に女の子であることを要求する。

 議論に入る前に、おとボクの設定を簡単に復習する。
 主人公・鏑木瑞穂は、鏑木財閥の御曹司にしてマルチかつパーフェクトな才能の持ち主。祖父の遺言がもとで、亡き母の母校である聖應女学院(PC-CD版では恵泉女学院、PS2版では聖央女学院)に、女学生として編入することになった。
 瑞穂のサポーターとして、入学を許可した学院長のほか、幼なじみの御門まりや、担任の梶浦緋紗子、瑞穂の女装を唯一見破った十条紫苑がいるが、それ以外の生徒・職員らには一切正体がばれてはいけない。瑞穂が男とばれた瞬間、聖應女学院を含む多くのグループ企業が風評により倒産、多くの従業員が路頭に迷うこととなる。
 そして、瑞穂は同じ遺言から、寮住まいとなり、まりやの他、上岡由佳里、周防院奏の二人の後輩と生活を共にすることとなる。もちろん、彼女たちにも性別がばれてはいけない。特に、奏は瑞穂のお世話係として、長い時間を共に過ごすこととなる。
 女性になりきる生活に四苦八苦しながらも、高い能力と人格のすばらしさを発揮した瑞穂は、転校間もないながら、聖應女学院の見本として「エルダーシスター」に選ばれる。このとき、堅物の生徒会長・厳島貴子より転校生を理由として反対意見が出されるが、即座に却下される。
 以降、瑞穂はエルダーシスター、すなわち理想の女性として学院生活を送ることを余儀なくされる。全校生徒の注目を集め、それでも男とばれないように。

2.1 女性たれ ――男性ゆえ「男性としての性自認」が排除されるシステム
 瑞穂は物語の中で、二十四時間、徹底的に女性として振る舞うことを義務づけられている(寝室はおろか、トイレですら例外ではない!)。この義務には、誇張なしに、人ひとりの命より重い責任がある。そのため、瑞穂は自らを女性として認識するように、徹底的に自己洗脳を施す。

「あわわっ…お、女の子女の子……私は女の子なんだから……っ………!」――宮小路瑞穂(処女はお姉さまに恋してる)

そして、周囲の反応も「宮小路瑞穂お姉さま」を賞賛するものばかりである。
 すなわち、宮小路瑞穂は、男性でありながら男性として存在することを許されず、また女性であることに対して強く賞賛される。

「女性の鑑のような方ですのね!」――一般生徒(処女はお姉さまに恋してる)

一瞬たりとも男性と認識されてはならない瑞穂は、複雑な胸中ながら、その評価に反発することは許されない。

「………きっとニュー瑞穂にもうすぐ生まれ変わるのよ。放っておきなさい」――小鳥遊圭(処女はお姉さまに恋してる)

 上記の考察におけるポイントは、「一瞬たりとも」男性としての性自認を持つことが許されないという点。エルダーシスターという立場により、学校内はおろか、寮内・町中でさえ、気を休めて男性でいられる瞬間を作ることが許されない。男性としての性自認を取り戻した瞬間、瑞穂には女装して学院潜入した変態とのレッテルが貼られる(だけならかまわないが、企業グループのトップに対するこの風評が、きわめて多数の人々の生活に影響が出るのは前述の通り)。瑞穂に残された男性としての責任感すら、瑞穂自身に女性でいることを求めているのだ。

 そして、おとボクにおいて物語を楽しむということは、主人公に感情移入するという意味であり、作品レビュー等感情移入なしに外面的な構造から分析を試みたとしても、それは的外れの評論を生むための、単なる苦痛でしかない。

それはまったくもって「苦痛」でしかなかったのではないか、と私は思います――takayan(おとボクの萌え構造 補遺・その1

 感情移入に成功した男性プレイヤーは、少なくともこのゲームをプレイしている限りは瑞穂と同一存在と見なすことが出来る。つまり、一般男性であるプレイヤーすら、女性としての性自認を持たされてしまうのだ。
 男性としての性自認を持っている人間が、簡単に女性としての性自認を持てるわけがない。この反論は一般的には当然のものであるが、上記考察を振り返ると、この反論を封じる二つの根拠がある。一つは、ゲームをプレイしている間に限られる点。女性としての性自認を持つのは、物語として瑞穂に感情移入している間だけでよい。もう一つは、男性としての責任感が強制している点。瑞穂は、祖父の遺言という「男同士の約束」を果たすために編入し、そして男バレがグループ経営に多大な影響を及ぼす。つまり、瑞穂が女性としての性自認を持つのは、このローカルな環境における「男としての責務」なのである。

2.2 女の子の世界 ――おとボクの立場からマリみてとの類似性を探る
 さて、続いては、前章で述べたおとボクが「マリみてのパクリ」と称される理由について、おとボクの立場でもう少し観察したいと思う。

 マリみてに特徴的なのは姉妹(スール)関係であるが、それに限らず女の子同士の友情がキーワードとなっているのは前章で述べたとおり。そして、これらを構築するための要素は、おとボクにも存在する。ここでは、要素分解を行うために、マリみてとの対応付けを行うが、作品が違うことから完全な対応はとれないことに注意されたい。

2.2.1. 瑞穂を二条乃梨子の立場にみる場合
 瑞穂は外部編入生という異質な立場でありながら、その類い希なる能力を用いて、急速に学院になじんでいく。この様子は一貫校であるリリアンに外部受験し、アウトローの立場から白薔薇のつぼみとなり、学園になじんでいった乃梨子と立場を同じくする。
 御門まりや:瑞穂を入学させ、入学後の瑞穂を導く。しかし、いつしか立場が逆転し、瑞穂に導かれる立場となる。このことから、まりやは松平瞳子と立場を同じくする。
 十条紫苑:瑞穂の正体を看過した後、御門まりやとともに、入学後の瑞穂を導く。また、将来への悲観から人を遠ざけていたところ、瑞穂の力により周囲に心を開くことに成功した。このことから、紫苑は藤堂志摩子と立場を同じくする。

2.2.2. 瑞穂を福沢祐巳の立場に見る場合
 また、瑞穂はその人柄をクラスに受け入れられ、級友達とも良い関係を築き上げる。これは、福沢祐巳が山百合会に飛び込み、築き上げてきた人間関係に近い。
 十条紫苑:よく言えば高貴な、悪くいえば近寄りがたい、人を遠ざける雰囲気を元々持ち合わせていた。前述したとおり、瑞穂の力によりその雰囲気を和らげ、周囲とのコミュニケーションを正常化できた。福沢祐巳の影響を受け、成長著しい小笠原祥子の立場としても見ることができよう。
 また、別の視点もある。六万円のパッドに釣られて(あるいは、釣られたふりをして)瑞穂とスキンシップを取ろうとする様子は、佐藤聖のそれともたとえることが出来る。
 小鳥遊圭・高根美智子:ストーリーには絡まないものの、瑞穂の級友として、そしてアドバイザーとして良い交流をかわす。性格や手法こそ全く違うものの、積極的な影響を与えに行く圭は島津由乃の、ゆっくりと待ち的確なアドバイスを与える美智子は志摩子の立場として見ることができる。

2.2.3. それ以外の関係性
 さて、上記に出ていない主要キャラクターは、厳島貴子、周防院奏、高島一子、上岡由佳里の4名。では、彼女たちをどう解釈すればよいのか。

 まず、厳島貴子であるが、マリみてにはそもそも対立構造が存在しないため、貴子のキャラクターがもたらす主要構造である「対立構造をぶちこわす」演出がマリみてでは不可能。したがって、瑞穂と貴子の関係に類似する関係は、マリみてには存在しない。もっとも、おとボクでもこの対立構造は本質的意味がなく、貴子の堅物キャラ(エルダー選挙)や嫉妬心(十月革命)を描くためのツールに過ぎない。この意味では、山百合会(祐巳)と新聞部(真実)の関係になぞらえることも不可能ではないが、これは牽強付会か。

 続いて、周防院奏であるが、一般的に瑞穂と奏の関係がもっともマリみてらしいとされる。奏は瑞穂のお世話係すなわち「妹」として瑞穂とともに行動し、瑞穂は奏を指導する立場すなわち「姉」として奏の行動に責任を持つこの構造は、マリみての姉妹制度そのものである。ただし、瑞穂と奏の姉妹においては、奏から瑞穂への影響や知識の伝授も少なくないことに注意する。この意味で、瑞穂と奏の関係は、マリみてにおける祥子と祐巳の関係に近い。
 なお、参考まで、主要キャラの在学期間(判明分)は、まりや・貴子・美智子>奏>(壁1)>圭>(壁2)>由佳里>瑞穂、となっている。

 高島一子についても、基本的には奏と同じ立場・関係性である。ただし、一子の場合、瑞穂を男性と認識しているため、マリみてのような「姉妹関係」の匂いは薄いため、関係性を学園の外、すなわち祐巳と祐麒の関係におく(祐麒は祐巳に対する良いアドバイザーとして働くことが多い)。

 最後に、上岡由佳里であるが、実は瑞穂との直接的関係は、同じ寮に住んでいる下級生という包括的なものだけである。ゆえに直接的に明示できる関係は存在せず、瑞穂と菅原君枝の関係同様、「友達の友達は皆友達だ」のような関係性となってしまう。もちろん、お互いの努力と相性によって、それが良い関係に発展することも多い。当初段階では、マリみてにおける祐巳と内藤笙子の関係、あるいは由乃と瞳子の関係が比較的近いか。
 また、キャラクター単独として瑞穂と由佳里を比較した場合でも、積極的な誰かにいじられることで光るおとなしい性格が共通していることも、直接的な関係構築を難しくしている(ゲームにおいては、瑞穂の成長によりこの難題を解決している。瑞穂の成長物語としての一面が強く表れる場面の一つでもある)。

2.2.4. まとめ ――友情を育むための仕掛け
 以上のように、マリみてとおとボクでは舞台装置ばかりでなく、人間関係まで似ていることが発覚した。また、マリみてになくおとボクに存在する要素として、ライバル(貴子)があるが、対立軸を造ることで強い友情を、それを壊すことで広い友情を手に入れることができる。
 上記では考察を省略したが、ヒロイン同士の関係性においても、マリみてに類似の関係は多く存在する。
 マリみてでは時間をたっぷりかけることで友情を育ててきたが、おとボクでは時間が不足しているため、友情を育てやすいイベントの構造をとる。これの善し悪しについては意見は多くあると思うが、本章の主張から離れるため議論を避ける。
 では、恋愛についてはどうなのだろうか。次からの三節において、恋愛についての考察を、いくつかの立場から行う。

2.3 異性愛という祝福 ――厳島貴子、高島一子
 まずは、一番わかりやすいところから。男女の恋愛を正とし、女性同士の恋愛を見ることが出来ない場合について考える。

 貴子においては、瑞穂に恋したと自認する頃から、女性同士の恋愛に関する異常性について思い悩んでいた。そんなときに、瑞穂が男性であることを知り、自らの感情が正常であると認識する。その後、いわゆる「デレモード」の状態では、行き過ぎた甘えと嫉妬、そしてそれに対する反省が行動の主軸に置かれる。そこでは、瑞穂をただひたすらに男性として見る視点ばかりが存在し、瑞穂がそれを咎める場面すら存在する。

「ここは女子校で、私は女生徒なんです……女の子と話している度にこれでは、身が保ちませんよ……?」――宮小路瑞穂(処女はお姉さまに恋してる)

 また、一子においては、幸穂の婚約に対する言い訳が同性愛への見解に否定的影響を与えた様子がある。

「そうね、私が男だったら、一子ちゃんをお嫁さんに出来るのにね」――宮小路幸穂(処女はお姉さまに恋してる)

そして、ありえないはずの「男性である宮小路幸穂」が、幸穂の息子という形で実現してしまった。もちろん、原作Interlude以降は一子も瑞穂をそのままの姿で見るわけだが、ノーマルエンドでは、自らを性欲処理のツールと宣言する一幕も存在し、瑞穂のことをずっと男性として見ていたとの解釈も可能である。

「わ、私を…その……えっちな本代わりになさって下さいませんかっ?!」――高島一子(処女はお姉さまに恋してる)

 貴子・一子のどちらにせよ、瑞穂が男性であるという事実が恋愛の推進に主要な役割を果たし、瑞穂とプレイヤーは男性としての性自認を取り戻す(それが危険なことであるにもかかわらず!)。
 この二つのシナリオは、サブキャラがそれほど生きない点が特徴となる。通常のエロゲーにはごく普通のことであるが、他のヒロインのシナリオと違い、マリみてに近い「女の子の広い友情」が全く効いてこない。
 これを逆読みすると、貴子・一子は、まっとうなエロゲー/ギャルゲーの構造を残した数少ないシナリオである、ということが分かる。このため、貴子と一子の人気の高さについての説明はきわめて容易である。

2.4 異性愛という原罪 ――周防院奏、上岡由佳里
 続いて、人気の意味で報われないヒロインの二人である。シナリオのレベルは高いと評価されるも、瑞穂に感情移入すればするほどプレイヤーの受ける傷が深くなるのがこの二人のシナリオである。

 奏シナリオにおいては、瑞穂と奏は何度も肌を重ねる(少なくとも4回、3回目が「幾度となく」のうちの1回とされているため、実際は遙かに多い回数と推測される)が、奏に対して瑞穂が性別を明かすのは最後の1回である(!)。それまでの間は、瑞穂が隠している秘密が重くのしかかる「レズ行為」であり、そこで育てているのは「女の子同士の恋愛感情」である。必然、瑞穂の心中は穏やかでなく、幾度となく罪悪感に押しつぶされそうになる。そして、瑞穂の抱える罪悪感を、奏は自らのわがままという形で解放する。

「それでも…それでもお姉さまは、自分の嘘が許せなくて、奏を捨ててしまうのですか………?」――周防院奏(処女はお姉さまに恋してる)、瑞穂の告白を受けて

 いっぽう、由佳里シナリオにおいては、瑞穂の男バレが最悪のタイミングでやってくる。女の子同士で結ばれる直前、キスした直後。その後、第8話のクライマックス直前まで、由佳里はその事実に苦しみ続け、相談するべき相手が誰も由佳里の言葉を肯定しない(それもそのはずで、由佳里の気持ちは瑞穂の全肯定であり、由佳里の言葉を肯定した瞬間に由佳里の気持ちを否定するパラドックスが待ち受けている)。このとき、精神的に追い込まれている人間の言葉に少しでも否定要素を持ち込むことは、その人の全否定を意味するため、状況と本心が真逆を向いている由佳里を完全肯定することは論理的に不可能である。

「どうして……どうして私があんな事云われなくちゃいけないの?!」――上岡由佳里(処女はお姉さまに恋してる)、紫苑の助言を受けて

そして、由佳里がとった気持ちの整理方法は、瑞穂を好きという気持ちで、性別という欠点を捨て去ることである。

「はい……だって、瑞穂さんは瑞穂さんで……ここに、この世界にたった一人しかいませんから……だから、瑞穂さんが女の人でも、男の人でも……へんたいさんでも、いいです……だって…大好きだから………」――上岡由佳里(処女はお姉さまに恋してる)

 奏と由佳里の二人のシナリオに共通することは、瑞穂が男性である事実が、恋愛の成就への大きな障害となっている点である。
 正確には、真実の障害は瑞穂の性別ではなく、ヒロインに対して「嘘を付いている」点である。しかしながら、(1)瑞穂が男性であるがため嘘をつき通す義務が課せられている、(2)「嘘を付いている点が真の障害」と気がつくまでに時間が掛かる、の2つの理由から、瑞穂が男性であることは恋愛成就の障害と言って差し支えない。
 由佳里の場合はヒロインの拒絶という形ゆえわかりやすいが、奏の場合は主人公の持つ罪悪感が障害となっている。どちらにせよ、瑞穂が男性である事実が、恋愛で乗り越えるべき最大の壁として立ちはだかるのだ。

2.5 弁証 ――御門まりや、十条紫苑
 瑞穂が男性であることに関して、2.3節では肯定の立場で、2.4節では否定の立場で描かれるシナリオをヒロイン二人分ずつ見てきた。では、残りの二人はどのように解釈すればよいのだろうか。
 他のヒロインとの差別化ポイントとして、この二人はシナリオが始まる前から瑞穂を男性と知っていることが挙げられる。

 まりやシナリオにおいては、作品内作品の映画「ウェービング・ストーリー」で外国に旅立つ男に、ついていく女と残る女を象徴的に描いているところ、エンディングにおいては、ヒロインであるまりやを外国に飛ばし、瑞穂は国に残ってひたすら待つという、物語テンプレートでの性別役割を逆転させている。そこに至るまでの過程として、瑞穂を「かわいいけど情けない男の子」から「心の底から格好良い男の人」に成長させ、さらには完全に男女の関係として結ばれたにもかかわらず、である。また、「やるきばこ」に収録された追加シナリオ「卒業旅行に行きましょう」では、まりや×由佳里のレズシーンが存在することから、まりやが性別を気にせず、個性を気にするタイプの人間であることも推測できる(注意として、まりやと絡むときの由佳里は「かわいいけど情けない女の子」として、初期の瑞穂にかなり近い性格を持つ)。

「そうだね、あたしは女で、瑞穂ちゃんは男で……でもね。あたしは、瑞穂ちゃんとそういう関係にはなりたくないんだ」――御門まりや(処女はお姉さまに恋してる)

 紫苑シナリオは、おとボクで最初の追加シナリオと呼ばれることもあり(根も葉もない噂ではあるが、企画段階では紫苑シナリオは存在しなかったとの話も聞こえている。これを示すかのように、同ブランド「うつりぎ七恋天気あめ」においては、幼なじみの女の子「天矢鮎乃」をメインヒロインとするシナリオは存在しない。また、「シャマナシャマナ〜月とこころと太陽の魔法〜」のヒロイン「ラビ・ロス」をメインヒロインとするシナリオは、「やるきばこ」のシナリオとして後に追加されたものである)、シナリオのクライマックスは伏線に満ちている。単語だけ並べれば、「鏑木家」「キリンの消しゴム」「厳島家」「病気」「奨学生」「修身室の鍵」「ドアの外」など、序盤や他のシナリオなどで使われてきた構図を多く見せている。当然、異性愛と同性愛についてのからくりも存在するのだが、瑞穂と紫苑のふたりをこの順番で、「男と女」「女と男」「男と男」「女と女」の関係すべてが描写されていることを以下で示す(ただし、恋愛関係とは限らない)。
 まずは、「男と女」の関係描写だが、物語序盤においては、学院に慣れない瑞穂の正体をいち早く見破り、導く役割を担う。物語終盤においては、十条紫苑という一人の女性を巡って、鏑木瑞穂と厳島兄はお互いを認識しないまま、紫苑を巡って対立する(そして瑞穂が勝利を収める)。ただし、あくまで「最初と最後だけ」がこの関係描写にふさわしいことに注意する。
 続いて、「女と男」の関係描写。CD-ROM版のパッケージ絵を見ていただきたい。先入観なしで、右の人と左の人、どちらか片方が男であるとして問題が出された場合に、「左の人」と誤答した事例は多い。また、これを裏付けるかのように、終盤、瑞穂は紫苑に「バレンタインチョコ」を渡している。
 「男と男」の関係描写は、多少特殊な方法を用いる。演劇「ロミオとジュリエット」である。この中で、紫苑は口の達者で気障な青年マキューシオとして、小鳥遊圭のアレンジのもと、ロミオ=瑞穂の友人を演じることに成功している。
 最後に、「女と女」の関係描写だが、瑞穂を友人と定めたその日から、学校生活の殆どを「女と女」の関係で過ごす。ロッカーでの胸パッド遊びから、お見舞いから、文化祭から、何から何までである。それも当然で、両者ともに女らしさが徹底して求められる「エルダーシスター」の立場にいるためである。
 このように、この二人を男女で見るときにはいろいろな描き方が存在しているため、性役割の視点からキャラクターを一意に定めることは、特に議論を行う際に危険である。

「瑞穂さん……あなたはさっきから男だって云ってみたり女だって云ってみたり……都合が良すぎますよ」――十条紫苑(処女はお姉さまに恋してる)

2.6 まとめ
 まず、2.1節では、瑞穂が男性であるがゆえに女性としての性自認を持たされることについて検証した。続いて、2.2節では、女の子の世界として、マリみてに類似した、友情ベースの世界観の構築を確認した。2.3節から2.5節にかけて、恋愛の形としてのおとボクについて考察した。
 恋愛の考察において、瑞穂の性別は「男性のほうがよい」「女性のほうがよかったが、その壁を乗り越えた」「そう、かんけいないね」の3パターンが存在することを示した。
 このパターニングを直感的に受け入れると、宮小路瑞穂は男性として、そして、女性としての両面から恋愛が可能であると推測される、果たしてこの解釈が正しいのであろうか?
 反論は、おとボクの中にある。冒頭でも引用した言葉であるが、再度引用する。

 「恋愛は心でする物であって、性別でする物ではありませんよ?」―― 十条紫苑(処女はお姉さまに恋してる)

また、同様の主張は、より厳しい体験をくぐり抜けた教師によっても示されている。

 「好きになるのは理屈じゃないわ。相手がどんな人間でも、好きになってしまえば関係ないの……性別だって、年齢だって、本当はきっと全然関係ないものなのよ」―― 梶浦緋紗子(処女はお姉さまに恋してる)

 そう、瑞穂の実性別は、おとボクという恋愛物語において、本質とはほぼ無関係なのである。であれば、その「百合っぽい」関係を本物の「百合」関係と区別することに、何の意味があろうか。

(1)マリみては百合じゃない ―― “Love” is only a strong word of “Like”

2007年12月25日 火曜日

ここでは、一つ目の命題「『おとボク』が『マリみて』の存在意義を否定するものでないこと」を示す。

1.1 「百合としての」マリみての存在否定 ―― マリみての視点から
 まず、前提として、マリみてが百合である点について、否定する要素は……ありすぎるから困る(AA略)。

1.1.1 佐藤聖について
 マリみてきっての百合少女とされている佐藤さん(元ロサ・ギガンティア)であるが、彼女がマリみての百合世界において、恋愛らしい恋愛をしたのはただ一度、久保栞を相手にしたときだけであり、作品内で全面的に否定されている。しかも、否定した上村佐織学園長は、その昔同じ轍を踏み自殺を図った経験の持ち主である(いばらの森)。
 栞を失ったその後は、志摩子にちょっかいを出せなかったり、祐巳ちゃんに対して無駄に抱きつき魔と化してみたり、卒業後は景さんの家に上がり込んだりもしている上、祐巳のピンチを格好良く救う(レイニーブルー/パラソルをさして)が、そういった態度が恋愛感情に結びつく様子はない。

1.1.2 福沢祐巳について
 マリみてが百合とされるのは、福沢祐巳・小笠原祥子の二人の存在も大きいと考える。ただし、純粋な百合とカテゴライズするためには、いくつかの問題が発生する。
 まずは、二人の関係を支える柏木優・福沢祐麒の二人が、百合認定には大きな障害となる。
 柏木については、祥子と寿司ネタを交換する(くもりガラスの向こう側)、何も言わずにデートに着いてくる(薔薇のミルフィーユ)などの行為に対し、祥子がそれを当然とし、嫌悪感を一切示さない。このため祐巳の嫉妬心を買っているが、柏木は祐巳のことを祥子に必要な存在と断言する。
 また、祐麒についても、好きな異性のタイプを言い合ったときに祐巳の好きなタイプを祥子と見破る(真夏の一ページ)他、祐巳関連で助力になることも多い。
 また、祐巳の人間関係の深さが、百合という狭い概念に祐巳を閉じこめておかない。祐巳の心の成長には、志摩子と由乃の存在、とりわけ由乃の冷静沈着な助言が不可欠である(話は逸れるが、由乃がこの冷静さを自らに適用し、行動で示せれば、暴走機関車あるいはアホの子のような評判を覆すことは難しくないと考えられる)。祐巳の瞳子に対する態度を見るときには、周囲の助けによる祐巳のレベルアップの要素を見逃すことはできない。
 また、松平瞳子においては、周囲の助けを拒んだ瞳子が、自らの葛藤によってずたぼろに切り刻まれていく様子と、それでも助け船を出す祥子・乃梨子・可南子の三人、そして何も言わずゆっくり待つ祐巳によって関係性を取り戻していく課程が描かれる。

1.1 まとめ
 マリみてでは、恋愛のような狭く強い関係性ではなく、周囲との友情を主眼とした広い関係性こそが、前に進むために求められる。聖と栞の関係が失敗したこと、祐巳と祥子の関係が成功したこと、祐巳と瞳子の関係が成功しそうなこと(*)にも通じる。

*この原稿を執筆している時点で、筆者は最新刊「薔薇の花かんむり」を読んでいません。

1.2 マリみてに追随する「百合マーケティング」 ―― エンゲージ、ストパニ、かしまし
 しかし、マリみてで示された、その広い関係性とその必要性は描ききられることなく、一対一あるいは一対多の、女の子同士の疑似恋愛関係のみが着目されるに至った。
 そして、類似された作品の発売は「百合ブーム」を活かして広まるものも多かったが、マリみての本質を決してとらえることなく、表面を一致させるだけに終わっている。

1.2.1 エンゲージ〜お姉様と私〜
 いきなり未プレイのエロゲーを持ってくるのは申し訳ないが、マリみてから派生したマーケティングを考慮するにあたり、この作品を紹介しないのは間違いと思うので一応。
 2005年6月に発売されたこの作品は、「百合編」と「陵辱編」の二部構成から成る。「マリみてのようなエロゲー」を目指して行ったことは二つ。
 (1:マリみてのような)キャラクターの造形を似せ、百合編を製作した。
 (2:エロゲー)お嬢さま学園を舞台にしたエロゲーのお約束として、陵辱編を制作した。
 しかし、ディスク2枚組の大作であるこの作品は、時代のはざまに浮かんで消える中堅エロゲーの枠を超えて話題になることはなかった。その理由は簡単で、同時期に発売された、別の「マリみてのようなエロゲー」に立場を奪われたため。

1.2.2 ストロベリー・パニック!
 翻って、こちらは男性の存在を一切消去することで商業的な成功を収めた作品。電撃G’sマガジンの読者投稿欄を出自としたが、その出自を忘れてガチ百合アニメ・ハーレム百合コメディ小説などのマルチメディア展開を図り、百合ブームにきっちり乗り込み大成功を収める。
 作品に対する批判としては、「百合」と「レズ」の壁に関するものが多い。百合とレズの壁、とは、直接的意味に於いてはプラトニック・ラブであるか否か、間接的意味に於いては精神的関係にとどまる「美しさ」を内包するか否か、を示す。
 この批判は、花園静馬・南都夜々らによる、過剰に肉体的なアプローチが百合ではなく、現実のレズビアンを彷彿とさせるというものだ。また、蒼井渚沙に対する涼水玉青・月館千代らの献身的な姿や、鳳天音・剣城要と言った「宝塚」キャラクターによるヒロイン(此花光莉)の奪い合いも、(精神的な意味での)血みどろの戦いによる本気の恋愛を想定させることから、百合とレズの概念差に引っかかる可能性に注意する。
 この作品の特殊な構造として、源千華留を中心とするル・リムの学生が、立場の割に人気の高いことが挙げられる。メインストーリーに絡むことがほとんどないル・リムであるが、「変身部」(「一番乗り部」等、名称変化多数)の活動にて、ほのぼのとした女学生達が描かれる。アニメにおいてはちょい役にもかかわらず、ストパニ人気の源泉の一つともなっている。ル・リムという閉鎖的空間内ではあるものの、この全方位に向けた仲の良さが、マリみて的な雰囲気の演出を表現していると説明するのは容易い。

1.2.3 かしまし〜ガール・ミーツ・ガール〜
 主人公の少年・大佛はずむが、純粋レズビアンであるヒロインの一人・神泉やす奈に告白し、玉砕。失意のさなか、どこからともなく飛んできた宇宙船に衝突、失った命を超テクノロジーで復活させる際に女性化してしまうことから始まるストーリー。アニメとコミックを中心としたメディア展開の妙は、原作者・あかほりさとるの手腕を遺憾なく発揮した成果といえる。
 ただし、女の子の体を持ちながら未だ少年である大佛はずむを、幼なじみ・来栖とまりと神泉やす奈の二人が取り合う様子を主軸として物語は進む。この、典型的な男女の三角関係ストーリーとして描いている点が、百合ファンには問題と映るようだ。
 また、大佛はずむは、最後にヒロインの片方を選択する(すなわち、もう一方のヒロインを切り捨てる)選択肢を暗に強制されている点から、全体の和をよしとする「女の子の間の関係性」とは切り離されるべき問題ともなる。

1.2 まとめ
 マリみてを発端とする百合ブームにおいて数多くのヒット作品が生まれたが、いずれも表面的な模倣に過ぎず、マリみての本質である、友情を中心とした広い関係性に向かって動くことを主眼とする作品は生まれていない。

1.3 唯一にして最初に成功した模倣 ―― 処女はお姉さまに恋してる
 最初に断っておく。おとボク原作ゲームの制作者や、多くのプレイヤー、そして殆どのクリエイター達は、この作品がマリみての模倣として評価される理由を知らない。この知見は、多くのプレイヤーの意見を「まとめた」一人のファンにより発見されたものであり、私はその知見をマリみてに関連づけ、論述を行っているだけである。

 おとボクは、「マリみてのようなエロゲー」として世に発売された。しかし、マリみてに忠実であるため、エロゲーの構造を保持しておくことが許されなかった。徹底的に丁寧で、そして全てのキャラクターを活かすシナリオの作りが要求された結果、エロゲーの文法に則って、エロゲーの構造の殆どを捨て去る必要性に駆られた。
 かろうじて残されたエロゲーの構造は、第一話における女性慣れ対策シーンと、Interludeにおける緋紗子先生とのシーンである。しかし、前者は主人公萌えの悪夢をもたらし、後者は大半のプレイヤーから蛇足との批判を受けた。

1.3.1 おとボクは、マリみての何を再発見したのか
 わかりやすいキャラが求められるエロゲーに対して、主人公・宮小路瑞穂は大企業の御曹司にして完璧超人であるにも関わらず、弱気ないじられキャラとして愛されるという、お約束を完全に外した設定。快活で頭の弱い幼なじみヒロイン・御門まりやは、主人公をリードする頼れる知恵袋、薄幸の美少女であるヒロイン・十条紫苑は体格の良いおちゃめな先輩。人気の最も高いヒロイン・厳島貴子は、ツンデレと称されながらツンの欠片も見られない。元気な後輩・上岡由佳里は作品きっての内気少女、見た目小学生の後輩・周防院奏は奨学生に相応しい頭の切れ味を見せる。
 ヒロインを単体で見ることを要求されるエロゲーにとって、この分かりづらい設定は障害でしかない。しかし、女の子同士の友情を表現する際、一見ひねくれた設定が実に効いてくる。

 翻って、マリみてを見てみると、「レイニーブルー」にて祐巳と祥子のすれ違いがあったとき、その関係性を継続するために、多くのキャラクターが活躍あるいは暗躍している。また、「パラソルをさして」を起点とする、祐巳と瞳子の関係性構築についても、他のキャラクターの活躍を見逃すことは決して許されない。
 そこには、女の子同士の広い友情によって問題を乗り越えるという、マリみてで繰り返し丁寧に描かれてきた物語の構図が再現されている。

 繰り返しということで、マリみてとおとボクには、物語の中で再現されるイベントがいくつか存在する。
 マリみてでは、「白き花びら」(過去:春日せい子と上村佐織、現代:佐藤聖と久保栞)「レイニーブルー」(過去:小笠原の祖母と池上弓子、現代:小笠原祥子と福沢祐巳)を中心に、ネタとして「妹オーディション」(過去:水野蓉子・小笠原祥子・福沢祐巳、現代:小笠原祥子・福沢祐巳・支倉令)など。
 おとボクでは、宮小路幸穂と高島一子の話がこれに該当し、第2話のきっかけがここに存在する。また、梶浦緋紗子と長谷川詩織の話は、宮小路瑞穂と上岡由佳里のストーリーにおける伏線になる。

 上記以外にも、伏線とネタのあふれた文章の仕掛けは、文学界では長らく続けられてきたものであるが、エロゲーにおいては、「つよきす」(きゃんでぃそふと、2005)で一度完成したパロディの潮流とぴったり合致する。これは偶然の一致ではなく、シナリオ・テキストの重要性の増大とともに、エロゲー側が文学側に近づいてきたことを意味するものである。
 もちろん、文学界におけるマリみて、エロゲー界におけるおとボクもこの例に漏れない。

 最後に、以上には触れなかったが、お嬢さま学園における主人公の成長物語というフレームワークは、両者で共通の前提である。

1.3.2 おとボクは、マリみての何を超越したのか
 しかしながら、おとボクはエロゲーである以上、完全にマリみてに忠実というわけにはいかなかった。すなわち、男でありプレイヤーの分身である主人公は、ヒロインの誰かと結ばれなければならない(この記述を含め、本章は百合を一切否定しない。詳しくは後述する)。
 普通のエロゲーであれば、都合良くヒロインとくっつけて他の登場人物に退場願い、山有り谷有りのいちゃいちゃラブラブを楽しむことに主眼が置かれる。しかし、おとボクではあえてその構図を取らず、マリみての手法をとった。すなわち、女の子同士の友情を主眼とした広い関係性を、恋愛の成就にすら適用したことである。
 とくに、十条紫苑シナリオにおいては、瑞穂と紫苑の関係を成就させる為に、厳島貴子・御門まりや・周防院奏など殆どの登場人物が協力し、また想いを成就した暁には、それを七百余名の「妹たち」が祝福する様子が描かれている。狭い世界にとどまっていたのでは、これほど大きな祝福は決して得られなかった。
 要するに、友情の延長線である「姉妹関係」にとどまらず、完全に一対一の関係である「恋愛」にすらマリみての「友情関係」の構図を利用し尽くしたのがおとボクという作品である。
 これは、マリみての特徴をさらに深くまで適用した、非常に希有な作品とすることができる。

1.3.3 おとボクは、マリみての何に届かなかったのか
 そして、もう一つの「エロゲー」の限界が、おとボクには存在する。最も大きいものは、物理的制約による作品世界の限界である。
 マリみては、1997年2月号のコバルト本誌よりスタートし、2007年10月に発売された「薔薇の花かんむり」にて、31冊(プレミアムブック・イラストコレクション含む)を数える大作である。作品世界では一年と半分ほどを経過しているが、その冊数に見合うほど登場人物は多い。また、小説という媒体も手伝って、それぞれの登場人物に関する情報は冊数という数字に見合わない程多い。
 翻って、おとボクが2005年2月に発売されたときは、ヒロインがフルボイス・イベントCGバリバリでCD-ROM2枚組、テキスト容量は6.5MBに満たない。6.5MBだと、小説1ページを平均1kB、一冊を平均200ページとして、およそ32冊分に見える。しかし、シナリオの重複分があるため、およそ6〜7冊程度に収まってしまう。また、登場人物を一人増やすということは、立ち絵を一人分と声優を一人準備する必要があり、作品の納期およびコストに与える影響は大きい。
 従って、ゲームという名前のソフトウェアプロジェクトであるおとボクを作るためには、登場人物を最小限まで削り取る必要があり、必然的に作品世界の広がりも最小限に抑えられてしまう。
 (サブキャラであれば同じ立ち絵を使い回せばよいという意見については、「いじめっ子と生徒会役員(あるいは萌えキャラ)が同じ達グラフィックでがっかりした」との反論が存在する)

 また、文章書きの能力についても、雲泥の差が見られる。
 マリみての文章はティーンエイジの少女を対象としているため、あえて平易にした文章の中に、ところどころ難しい語彙を混ぜることで読者の語彙力を高めようとする配慮がある。そして、伏線を最大限に生かし、また疑問を持たせるため、ミスディレクション(誤導)の活用も辞さない。「レイニーブルー」での祥子の言い訳、「バラエティギフト」での由乃の自己嫌悪などはミスディレクションの典型である。
 また、「縦ロール」を「盾ロール」と誤植した巻(未来の白地図)においては、あとがきで読者からの手紙に対して誤植への注文をつけたため、この誤植に関して致命的失策かそれとも故意か、憶測が飛び交ったものである。これが無名の作家であれば、単なる誤植として片付けられていたものが、今野緒雪であるからこそ議論が沸騰し、同人誌のネタとして扱われるまでになった。
 翻っておとボクは表記揺れなどの細かいミスが多く、プロットやキーセンテンスなどは話題に上ることは多いが、地の文はほとんど話題にならない。また、地の文は完全に直球で、先の読みやすい展開であった。
 おとボクでも難しい語彙などはあり、解説ウィンドウなどの親切なシステムは存在したが、これは序盤のゲームプレイのサポートと終盤のネタに限られていた。

1.3 まとめに代えて ―― マリみてにとっておとボクとは何なのか
 良い論文は、多くの人に読まれ、多く引用されるものであるというのは学術界の定説であるが、駄文に引用されても価値が上がるわけでなく、また、本質が伝わらないような引用をされてしまうと元の論文の価値が曲げられてしまう。
 マリみても、おとボク登場の直前までは、表面だけの模倣に晒され、価値を曲げられていたと言える。しかし、おとボクという本質をとらえた模倣作品が世に出され、そしてこの作品は企業の供給能力を遙かに超えた需要が存在することが明らかになった。
 これは、おとボクの「原典」たるマリみてが、マリみて以外の形で初めて完全肯定された瞬間と言える。女の子の友情をメインにした話の作り方が完全に成功し、マリみての目指した方向性が正しかったことが、別の形で肯定された。
 そして、「関連作品」のつながりは、人の流動と発展を促す。マリみてのファンは「コバルト」の読者層である、十代の女性と二十代の男女を中心に拡大しているところ、おとボクのファンは当初、一ひねり効いたエロゲープレイヤーである三十代以上の男性を中心に拡大していた。また、同時に当初からのマリみて読者は世界を広げ、おとボクのプレイヤーと交流可能な年齢にまで達する者も発生する。
 この一見関係のない二つの要素が交わると、何が起きるか。お互いの作品が多方面からの批評を受け、良い点・悪い点があぶり出される。また、それと同時に、お互いの作品がメディア展開などで層を増やすときに、関連作品として紹介されることで両者のファンが増えることになる。すなわち、作品ファンの裾野が広がるのである。
 裾野が広がり、知名度を上げていく段階で頭のおかしいファンやアンチにとりつかれることもあるだろう。しかし、マリみて・おとボクともに、批判を乗り越えるだけの高い品質を持った作品であることは論を待たない。質の悪い作品が、多くの人の心を数年間にわたってとらえ続けることなど、出来るわけがないのだから。

1.4 閑話休題なお話をいくつか
 ま、ネタってことで。

1.4.1 マリみてとおとボクのアニメ共通点
 マリみてのアニメは、マリみてファンが楽しむために作られ、妥当な成功を収めたアニメーションであり、おとボクのアニメは、声優ファンが楽しむために作られ、成功した後も原作プレイヤーとの間にしこりを残すアニメーションと、全く異なる結果を残したアニメではあるが、その中身にはいくつかの共通点が見られる。

 a. 最初に尺の短さを露呈させる ―― 第1話〜第3話
 マリみての場合は明らかにファン向けに作られており、ある程度の省略やスキップはたいした問題にはならないという事情がある。翻っておとボクの場合は、作品世界への導入は最低限に、御門まりやvs厳島貴子の構図を明確にしたいという意思が働いていた。
 その結果、全く違う構図にもかかわらず、同じ現象が発生した。
 序盤にキャラクターを登場させ、その関係性と作品概念に少しずつなじまなければならないこの時期に、両アニメとも、徹底的にイベントを詰め込んでいる。一般的なアニメであればある程度のテンプレートが身体に染みついているので正しい方法論ではあるが、慣れない概念が入り込む中、ゆっくりとした流れに身体を置き、作品世界に慣れ、いくつかのキーワードを覚えるための時間が、両者ともに圧倒的に不足していた。

 b. 説明不足による違和感 ―― マリみて春「銀杏の中の桜」とおとボク「小っちゃな妹と大きなリボン」
 一見どうでもよいシーンの省略や変更が、作品に対する印象をがらりと変えることがある。

 マリア様が見てる〜春〜第8話「銀杏の中の桜」、乃梨子が祥子と志摩子のバトルシーンを止めに入ろうとし、令にやんわり制止される場面。全くもって原作通りのこのシーンに対し、私は一つの違和感を覚えた。
 「あれ、乃梨子って、こんな簡単に引き下がるような子だっけ?」
 原作の小説を読み直して、違和感の正体を調べてみたところ、驚くべき事実が浮かび上がった。
 アニメでは省略されていた菫子さんとの他愛ない会話が、原作では重要な伏線となっていたのだ。上のシーン、原作では、偶発してしまった大きな事件を使って、志摩子さんの閉塞した状況を一気に押し流すための賭に出たとも読み取れるシーンだが、菫子さんの助言を省略したことで、乃梨子が単に牙を抜かれたように見えてしまったのである。

 そして、乙女はお姉さまに恋してる第7話「小っちゃな妹と大きなリボン」にて、いくつかの重要な事実を取りこぼしている、あるいは変更しているため、この話の名台詞「恥を……恥を知りなさい!」にて、私は原作プレイヤーにあるまじき感想を抱いた。
 「あれ、瑞穂きゅんって、こんなDQNだったっけ?」
 DQNとは常識や知性に欠けている人・組織を表す言葉であり、エルダー・宮小路瑞穂のイメージには全くそぐわない。もちろん、原作ゲームで該当のシーンをプレイしたときも、こんな感想が出てきたことは一度もない。
 それにも関わらず、この感想が出てきた理由はいくつかあるが、最大の理由は奏ちゃんを守るための大義名分であろう。前述でもリンクで示したが、いくつかの省略と変更により、原作では大義名分が瑞穂と奏の側にあったものが、アニメでは大義名分が貴子の側にあるように変わってしまったのだ。そのため、無意味に生徒を叱りつける瑞穂が、エルダーの権力を振りかざしているように見えてしまったのだ。

 このように、マリみてとおとボクでは、原作のテキストのレベルをアニメで表現しきれないことを原因とした不具合の内容が、不思議と共通している。マリみて・おとボク共に、生半可な姿勢では理解しきれないことを示す、良い教訓とも言えよう。

1.4.2 花物語 ―― 百合の古典は、マリみての感動をもたらさない
 さて、一旦時代をさかのぼって、女学生百合の最高傑作のひとつである、吉屋信子「花物語」について簡単な感想を述べてみたいと思う。
 本書は大正時代後半に発売されたが、会社を変わりながら再版を続け、現在は国書刊行会にて再版されている。要するに、国家と権力すら認める女学生百合の金字塔ということだ。
 私は国書刊行会にて発行された版を一年掛けて、上・中・下と読んだが、正直に申し上げると、話の半分も頭に入らなかったばかりか、読み直す気すら起きずに古書店行きとあいなった。
 基本的には、女学校を舞台とした女学生の短編集である。女学生同士、先輩に憧れる話、後輩を可愛がる話、同級生同士で助け合う話、いがみあう話、あるいは百合っぽい学校の怪談など、話が多岐にわたり、そのエピソードごとに全く違う主人公が設定される。
 古風な文体に妙なカタカナ言葉が混じった表現が、大正時代という背景をよく表し、また難しい単語もほとんどないため、文体にさえ慣れてしまえば比較的読みやすい。
 ただし、ショートストーリーであるがゆえに、一つ一つの話に全く連続性がなく、キャラクターに愛着を持ちづらい。これは、現代のライトノベルに慣れてしまったために仕方ないのかもしれない。とにかく、シチュエーションにその場だけ萌えて、そしてすぐに忘れてしまう、の繰り返しであった。もちろん、私の読み方に問題があった可能性は否定できない(今思えば、1日に2話以上読んではいけない作品だった)が、主人公がころころ入れ替わるため感情移入が難しいのだ。
 そして、完全な短編集というのが裏目に出て、世界を構成する人物がとにかく狭くなりがちで、広い友情を構築し、読者にそれを実感させるだけのページ数はとうてい確保されない。
 したがって、私はこの作品を百合として楽しむことは出来たが、マリみての原典としてみることは難しかった。

1.4.3 二次創作について ―― 神託は、人の思想を変えない
 さて、上記の記事について、一つ誤解を解いておこうと思う。
 上記の記事を読むと、マリみてを百合としてみることが許されないかのように見えるが、私はマリみてが百合ではないことを指摘しただけであり、それを百合として見る分については否定しない。英語で言うと、「A is B」は許されないが、「A as B」は個人の自由なのである。
 したがって、上記論述をふまえた上で、それでもマリみての二次創作を百合に仕立て上げるのは、二次創作のための思想そしてテクニックであることは自明の理である。かくいう私も、「特別でないただの一日」にて、待ち合わせをする聖と蓉子の二人を、無理矢理百合と解釈する二次創作小説「40 minutes」を発表している。
 二次創作とは、ある作品を「ジャンル」すなわちプラットフォームとして自らの思想を表現する手法であると言える。二次創作には原作の設定が最大限活用されるが、すべてが原作である必要はなく、思想や解釈の差が反映される余地は十分に残っている。