2007年より細切れで発表してきた本稿も、これで最終稿となる。
ここまで、
・『おとボク』が『マリみて』の存在意義を否定するものでないこと
・『おとボク』が異性愛中心主義を助長するものでないこと
を、マリみて/おとボクの比較から示し(1章,2章)、女装少年/現実社会の立場から、これを補強した(3章,4章)。また、補足として、
・百合の定義を示し、百合に関する論争を定義から検討することを可能とし、おとボクへの検討に適用した(5章の1)
・アダルト表現を本質としないエロゲーの存在と定義を示し、おとボクがこれに属することを示した(5章の2)
二つの補強を実施した。
本章では、最後に、私の視点から、彼の論理そのものについての反論を行う。
専門家でない私にとって、インターネットという武器は、反論の大きな助けとなったが、本質を読まずに情報を鵜呑みにすることほど、論説にとって危険なことはない。
ただし、個人がインターネットへ発信できる時代、情報に対して本質へのアプローチを試みる記述は多くあり、これらの記述は本質を読もうとする上で、理解の助けとなることも多いが、逆に理解を妨げる場合もあるので注意する。
6.1 論説の条件
まず、論説というものについて考える。
論説とは、次の手順で行われる。
(1)目的を示す(アウトラインも示してあげると親切)
(2)前提の情報を示す
(3)情報から意味を抽出し、定義と公理系をつくる。
(4)定義と公理系を用いて、結論を導く
(5)結論が目的にかなっていることを確認する
実際は、定義と公理系が明白として(3)を省略する、抽出の方法から正当性および結論は明白として(4)を省略する、など、不要な部分を適宜枝切りしていくことになるが、不要と思って切った枝が議論の本質だったりすることもあるので要注意。
このとき、結論が誤る可能性があるのは、
(1)前提の情報がおかしい
(2)定義/公理系の作り方がおかしい
(3)定義から結論へ至る論理に抜け/漏れ/誤りがある
の3パターンが主に考えられる。
6.1.1 思い込みの罠——風評は事実なのか?
まずは、(1)前提の情報がおかしい、について考えてみる。
よくありがちなのが、わかりやすく要約した事実を、不適切に一般化することである。この問題は新聞やメディアを情報源とした場合に発生しやすいが、要約することで本質が抜け落ち、さらにその操作の誤りを一般化するために起きる。
これの対策について、よく言われる指摘が、「一次ソースをあたれ」というものであるが、一次ソースにアクセスできて、かつ、その内容を十分に理解できる時点で、その道の専門家と言って差し支えない。
だが、これでは、専門家以外が議論することが一切許されなくなってしまう。「餅は餅屋」とはいうが、餅を食べるのは一般の消費者であるがゆえ、餅屋以外が餅について分からなくなったら餅という食べ物は終わりである。
では、どうするか。
二次ソースの中でも、できるだけ多角的な視点から情報を集めること、集めた情報の中で「一次ソースを深く分析しているもの」を選択することである。このとき、分析のプロセスについて批判的に読むことも重要である。ここで、批判的、とは、提供された事実をおおかた認めた上で、分析のフレームワークを詳細に検討することである。たとえ同じ事実でも、異なるフレームワークで検討すれば真逆の結論を導くことさえ難しくはない。
もちろん、一次ソースにアクセス可能ならばアクセスし、それをもとに検討することは当然である。二次ソースに要約されているものは、枝葉を落とされた結果とに他ならず、すなわち、本当においしい隅っこの部分が切り捨てられたものであることに注意する。
6.1.2 事実の罠——常識と権威から脱却せよ
次に、(2)定義/公理系の作り方がおかしい、という問題について考える。
ここでもっとも目立つミスが、「示されたものをを丸飲みする」問題である。ここでいう「示されたもの」には、大きく「事実(データ)」「常識」「権威」の3種類があるが、論点は同じなので、以下では「事実(データ)」のみを取り扱う。
まず、データを丸飲みすることがどう問題なのか、という問いについて、一番問題視されるのは「数字のマジック」である。数字のマジックは錯覚が中心と思いがちだが、むしろ「母数の恣意性」と「情報収集の恣意性」の2点から容易に仕掛けやすい(山田真哉「食い逃げされてもバイトは雇うな」シリーズに詳しい)。
母数については、明白なものがいくつかある。例えば、ニコニコ動画の「ニコ割アンケート」は、母集団が「ニコニコ動画を利用しているインターネットユーザー」に限られることから、たとえば政治的なアンケートでは、小沢民主党より、麻生自民党に有利なアンケート結果が出たりする。
また、情報収集については、本weblog「アンケートの恣意性」などでも触れたことがあるが、アンケートにかかわる問題および選択肢の与え方によって、回答を誘導することが可能となる。
「事実を丸飲みする」危険性の例は、データに限らず古今東西あらゆる場所に偏在する。例えば、「マスメディアの偏向報道」「匿名インターネットの危険」などは、しばしばトラブルを引き起こす事例として有名である。
常識と権威についても同様に、丸飲みは危険であり、それがもたらす意味を正しく解釈する必要がある。
(例)精神障害の診断と統計の手引きにおいて、性的倒錯には「服飾倒錯的フェティシズム」が含まれるが、「同性愛」は含まれない。しかしながら、これをもって「女装は異常である」、「百合は正常である」という決め付けはナンセンスであり、かつ危険である。なぜならば、上記手引きの中で、性的倒錯と認定されるためには、
1)当人がこの性嗜好によって、心的な葛藤や苦しみを持ち、健康な生活を送ることが困難であること。
2)当人の人生における困難に加えて、その周囲の人々、交際相手や、所属する地域社会などにおいて、他の人々の健全な生活に対し問題を引き起こし、社会的に受け入れがたい行動等を抑制できないことである。
の2条件を満たすことが必要だからである。常識人の場合、(2)は(1)を包含すると考えて差し支えないので、変態は、性志向により「世間に迷惑をかけるか否か」だけで定義されると言って大まかに問題ない。
極端な話、「10歳は大人」という社会的なコンセンサスがとれていれば、たとえば10歳の子と結婚してもペドフィリアにはあたらないし、同性愛が原因で世間に迷惑をかけたらその同性愛は性的倒錯として精神障害の扱いになる(もちろん、同性愛自体は世間に迷惑をかけるものではない。宗教が絡むと話はややこしくなるが、ここは日本なので考察は省略できる)。
6.1.3 パラダイムシフト——否定は新しい世界への扉
最後に、 (3)情報から結論へ至る論理に抜け/漏れ/誤りがある、について考える。
単純なケースの抜け/漏れについては簡単に指摘できるが、視点および考え方、すなわち議論のフレームワークそのものに抜け/漏れがある場合は、明白にして単純ゆえ、その誤りを発見するのは容易ではない。
読者としては、情報から結論へ至る論理について、二つの視点から読む必要がある。
一つはフレームワークに沿って筆者の主張を理解する読み方であり、もう一つは議論のフレームワーク自体に抜け漏れがないことを確認する読み方である。
ここで、ゲーデルの第2不完全性定理は、「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。」と記述されている。自然数論とはすべての数学/算数の基礎論であることから、データ等を持ってきて議論する、「〜である」論には必ず抜け/漏れ/矛盾のいずれかが存在することが数学的に証明されている、ということである。
ゲーデルの不完全性定理に触れないためには、証明すべき内容より強力な前提条件が必要となる。これをもっとも簡単に与えるのは「〜すべき」論であるが、これは上記(2)定義/公理系の作り方がおかしい、という批判に対してまったくの無力である。
抜け/漏れ/矛盾が許されないのに証明できないという事実は困るため、現実の議論では、指摘された問題に対して、「その抜け/漏れ/矛盾は現実的か」「例外として無視できないか」の観点から徹底的に検討し、議論の要旨への影響を探ることが必要となる。
この議論の中で、フレームワークそのものの誤りが指摘されることも多い。だが、問題に対してより適切なフレームワークを検討することで、今まで検討されなかった新しい事実や考え方を導くことができる。
(例)性別:秀吉
ライトノベル「バカとテストと召喚獣」に出てくる少年「木下秀吉」について、本来は男性ながら、その女性的な容姿から男性扱いすることが問題視され、男女のどちらでもない第三の性別「秀吉」として認識されている、というものである。
これは、「男 or 女」の分類で考えるとジェンダーの概念が破綻するため、ジェンダーの考え方を拡張した好例である。
6.1.4 まとめ:本質をつかむ——神は細部に宿る
要するに、論説の際は、
・できるだけ正しい情報から、
・本質を正しく抜き出して、
・適切なフレームワークで議論せよ
と、それだけの話である。
もちろん、一回の論説ですべてを満たすことは不可能であり、議論を重ねることで完全に近づいていくしかない。議論と経験を積み重ねていく中で新しい概念がどんどん発生し、また、パラダイムが時代とともにシフトすることで新しい視点がまた積み重なっていく。
(例)ハイブリッドカーの戦いを眺める
今話題の「トヨタ・プリウス VS ホンダ・インサイト」であるが、これが「電気自動車 VS ガソリン自動車」の代理戦争であることを読み取るのは、それほど難しいことではない。
トヨタはシリーズ方式から出発し、スプリット方式を採用した後もモータに力点をおいた開発をつづけていることは、新型プリウスの仕様から明らかである。シリーズ方式は「ガソリン発電する電気自動車」の考え方であり、また、スプリット方式でもモータを中心に据えることで、この考え方を継承している上、より電気自動車に近いプラグイン・ハイブリッド方式を採用したプリウスが2010年に発売予定である。
いっぽう、ホンダは典型的なパラレル方式であり、これは「モータ補助つきエンジン自動車」の考え方である。この考え方はマイクロハイブリッド方式でより顕著であり、安価なハイブリッド方式として、海外メーカーの人気が高い。
自動車の選択条件として、燃費と価格が全面に出されるが、乗り心地も選択の条件として重要であり、モーターとエンジンのどちらをメインとしたほうが乗り心地が良いのかは人それぞれである。
傍から見ると、ほとんど同じようにしか見えない二つのシステムではあるが、詳細を検討していくと哲学からして異なる好例といえる。
6.2 アンチの品格——超高難易度の証明に挑め?
論説の条件について検討したところで、次に、「ものごとを否定する」論説について考える。
6.2.1 完全性を必要とする論説
ものごとを否定する論説としては、「完全に主観に頼った否定」と「客観性のある否定」の二つのタイプがある。
このうち前者は「俺は嫌いだ」で話が完結し、あらゆる読み手は「俺とお前じゃあ、考え方が違う」で終わればいいだけの問題となる。
問題は後者、「客観性のある否定」である。
客観性を持たせる、ということは、論理に説得力を持たせることを意味する。すなわち否定行為への「共感/納得を求める」論説を行うことに他ならない。
このとき、否定論を展開されることは、肯定論者にとって心証の良いことではない。自らが肯定しているものについて、否定者を必要以上に増やすことはしたくない/事実を知らない人間を否定論に引き込まれたくないのは当然といえる。
これによって、何が起きるか。肯定論者による、否定論の「客観性の破壊」である。
否定論が肯定論者の心証を悪くする以上、肯定論者による反論は、否定論の客観性の破壊だけでなく、否定論者自身への攻撃にまでつながる可能性がある。
これを防ぐためには、否定論は完璧でなければならない。
少なくとも、否定論が「誤っている」という反論は、発生そのものが許されない。
すなわち、否定論は、論理の穴をふさぐように
・正しい情報をもとに
・様々な観点から本質を抜きだし、
・事実上完全なフレームワークで論破する
ことが求められる。
すなわち、否定論者は、否定すべき対象について、肯定論者よりも深い理解を求められるのだ。
嫌いだから理解したくない、でも、嫌いと言うためには誰よりも深く、完璧に理解しなければならない。
否定論を述べるというのは、非常に知的でストレスフルな作業なのである。
6.2.2 証明の難易度
否定論に必要なものは「完全性」であることは述べたとおりだが、完全性を求めることは、非常に厄介なことでもある。肯定論者に付け入る隙を一切与えてはならないためである。
それに対して、肯定論は否定論が「不完全であること」を示す、すなわち反例のひとつでも持ってくれば十分なため、反論がたやすい。
この意味でも、否定論の難易度は非常に高いといえる。
生半可な知識と気持ちで否定論を述べると、痛い目に合うのは否定論者自身である。
6.2.3 完全性が崩されたとき
さて、実際に論説の完全性が崩された場合の対処だが、これを誤ると論説の論理性はおろか、論者の人間性すら疑われることに注意する。
論説の根拠あるいは論理が崩された場合、とりうる行動はおそらく以下のどれかであろう。
1. 無視する、あるいは、発狂する
2. 指摘に対して、論理崩しを試みる
3. 論理/根拠を再構築する(部分的に修正する)
4. 論説を取り下げる
1.は論外。4. はさすがに弱いが、「(〜のため、)この論説は誤っておりました」と頭を下げれば人間性は問題なかろう。
2.および3.は、自分と相手の論説について、根拠と論理を洗い出す必要がある。すべて洗い出した結果として、それでも自分が合っているのであれば相手に習性を求めればよい(2.)し、相手が合っていれば、同様の指摘を受けないよう自分の論説を修正すれば良い(3.)。このとき、どちらの方法論をとるにせよ、相手の主張を細部まで完全に理解することが前提となるため、慎重な検討が必要となる。主張を誤って理解している場合、論理崩しは単なる発狂であり、論理の再構築は新たな論理のほころびを呼ぶだけの作業と成り果てる。
根拠と論理を洗い出した結果の修正が狭い範囲で済むか、論理の骨格に深く突き刺さるかは、論理の本質をどこにおいているかで決まる。筋の通った、深い本質をもとに議論していれば事実にかかわる小修正のみで済むが、事実を丸飲みした浅い理解で作った本質を直撃すると、論理の骨格が塵一つ残らない悲惨な状態になってしまう。
なお、論理の再構築を繰り返すうちに、否定論が肯定論に変わる可能性があるが、その場合は肯定論を認めてしまえば良い。ここは、人間の度量が問われる場面であろう。
(例)ブルーレイディスクへの否定が肯定に変わったケース
ブルーレイディスク/ハードディスクレコーダの購入を検討している友人に対して、私はSDXC規格のSDカードが将来出ることをみなして、ブルーレイディスクへの録画を「おすすめしない」立場で論を張った(BDは50GB、多層化で400GBのところ、SDXCは規格が対応し次第2TBまで見えていたため)。
しかし、その後、録画時間を詳細に計算したところ、ブルーレイディスクの録画時間が目的にジャストフィットしていることが判明し、ブルーレイディスクへの反対論を取り下げることとなった。(参考まで、録画時間の目標が「BDディスク1枚でアニメ1クール(30分×13話=6時間30分)いけるかどうか」のところ、録画時間の試算は6時間40分であった)
アニメにジャストフィットする規格として、BDは神と讃えられるべきではなかろうかと今は思っている(笑)。
6.3 敗北宣言——まとめに代えて
以上、本章では、論説の書き方について述べてきた。
ここまで張ってきた論説については、各個の事実については誤りはあろうが、それの修正が論理の本質に影響することはないと、個人的には考えている。
だが、いくら正論を張っても、相手の心に届かないのでは意味がない。
当初の私の目的は、彼に、(1)彼の論説において、おとボク(の誤ったイメージ)を代表とする女装似非百合への批判からおとボク自身を外してもらうこと、(2)おとボクを知ってもらうこと(できれば好きになってもらうこと)、の2点であったが、いずれも失敗している。
相手の心を変えるには、自分と相手の両方を大切にしたアサーティブなコミュニケーションが絶対条件として必要であったところ、私にそのスキルが欠如していたためであろう、と推定されるが、「ではどうすればよかったのか」と問われたところで、答えは今でも思いつかない。
これに気がついたのが、3章まで書いたころであった。
ただし、書きかけの論説をそのままにしておくのも気持ちが悪いので、そこからおよそ1年をかけて「自分の論理」を整頓することに集中した。
すなわち、私にとって、彼のチャレンジは自分の考えをまとめるためのチャンスであり、それ以上でもそれ以下でもなくなっていた。
この1年半ほど、私は彼の論説を目にしておらず、また、私が彼の論説に目を通すことは金輪際ないものと推定される。
あったとしても、おそらく論理の破綻が目についてしまうであろうから、その場でブラウザを閉じることとなろう。
そう、私は彼との交流に、完全に失敗したのである。
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