続いては「『おとボク』が異性愛中心主義を助長するものでないこと」の証明だが、先に着地点だけ宣言しておこうと思う。
「恋愛は心でする物であって、性別でする物ではありませんよ?」―― 十条紫苑(処女はお姉さまに恋してる)
では、この結論に至る議論を、まずは、マリみてとおとボクの中だけで閉じる議論として行いたい。
前章で述べたとおり、おとボクはエロゲーである。すなわち、主人公は男で、ヒロインである女の子と結ばれなければ話が成り立たない。しかし、この作品は男であるはずの主人公=プレイヤーに、徹底的に女の子であることを要求する。
議論に入る前に、おとボクの設定を簡単に復習する。
主人公・鏑木瑞穂は、鏑木財閥の御曹司にしてマルチかつパーフェクトな才能の持ち主。祖父の遺言がもとで、亡き母の母校である聖應女学院(PC-CD版では恵泉女学院、PS2版では聖央女学院)に、女学生として編入することになった。
瑞穂のサポーターとして、入学を許可した学院長のほか、幼なじみの御門まりや、担任の梶浦緋紗子、瑞穂の女装を唯一見破った十条紫苑がいるが、それ以外の生徒・職員らには一切正体がばれてはいけない。瑞穂が男とばれた瞬間、聖應女学院を含む多くのグループ企業が風評により倒産、多くの従業員が路頭に迷うこととなる。
そして、瑞穂は同じ遺言から、寮住まいとなり、まりやの他、上岡由佳里、周防院奏の二人の後輩と生活を共にすることとなる。もちろん、彼女たちにも性別がばれてはいけない。特に、奏は瑞穂のお世話係として、長い時間を共に過ごすこととなる。
女性になりきる生活に四苦八苦しながらも、高い能力と人格のすばらしさを発揮した瑞穂は、転校間もないながら、聖應女学院の見本として「エルダーシスター」に選ばれる。このとき、堅物の生徒会長・厳島貴子より転校生を理由として反対意見が出されるが、即座に却下される。
以降、瑞穂はエルダーシスター、すなわち理想の女性として学院生活を送ることを余儀なくされる。全校生徒の注目を集め、それでも男とばれないように。
2.1 女性たれ ――男性ゆえ「男性としての性自認」が排除されるシステム
瑞穂は物語の中で、二十四時間、徹底的に女性として振る舞うことを義務づけられている(寝室はおろか、トイレですら例外ではない!)。この義務には、誇張なしに、人ひとりの命より重い責任がある。そのため、瑞穂は自らを女性として認識するように、徹底的に自己洗脳を施す。
「あわわっ…お、女の子女の子……私は女の子なんだから……っ………!」――宮小路瑞穂(処女はお姉さまに恋してる)
そして、周囲の反応も「宮小路瑞穂お姉さま」を賞賛するものばかりである。
すなわち、宮小路瑞穂は、男性でありながら男性として存在することを許されず、また女性であることに対して強く賞賛される。
「女性の鑑のような方ですのね!」――一般生徒(処女はお姉さまに恋してる)
一瞬たりとも男性と認識されてはならない瑞穂は、複雑な胸中ながら、その評価に反発することは許されない。
「………きっとニュー瑞穂にもうすぐ生まれ変わるのよ。放っておきなさい」――小鳥遊圭(処女はお姉さまに恋してる)
上記の考察におけるポイントは、「一瞬たりとも」男性としての性自認を持つことが許されないという点。エルダーシスターという立場により、学校内はおろか、寮内・町中でさえ、気を休めて男性でいられる瞬間を作ることが許されない。男性としての性自認を取り戻した瞬間、瑞穂には女装して学院潜入した変態とのレッテルが貼られる(だけならかまわないが、企業グループのトップに対するこの風評が、きわめて多数の人々の生活に影響が出るのは前述の通り)。瑞穂に残された男性としての責任感すら、瑞穂自身に女性でいることを求めているのだ。
そして、おとボクにおいて物語を楽しむということは、主人公に感情移入するという意味であり、作品レビュー等感情移入なしに外面的な構造から分析を試みたとしても、それは的外れの評論を生むための、単なる苦痛でしかない。
それはまったくもって「苦痛」でしかなかったのではないか、と私は思います――takayan(おとボクの萌え構造 補遺・その1)
感情移入に成功した男性プレイヤーは、少なくともこのゲームをプレイしている限りは瑞穂と同一存在と見なすことが出来る。つまり、一般男性であるプレイヤーすら、女性としての性自認を持たされてしまうのだ。
男性としての性自認を持っている人間が、簡単に女性としての性自認を持てるわけがない。この反論は一般的には当然のものであるが、上記考察を振り返ると、この反論を封じる二つの根拠がある。一つは、ゲームをプレイしている間に限られる点。女性としての性自認を持つのは、物語として瑞穂に感情移入している間だけでよい。もう一つは、男性としての責任感が強制している点。瑞穂は、祖父の遺言という「男同士の約束」を果たすために編入し、そして男バレがグループ経営に多大な影響を及ぼす。つまり、瑞穂が女性としての性自認を持つのは、このローカルな環境における「男としての責務」なのである。
2.2 女の子の世界 ――おとボクの立場からマリみてとの類似性を探る
さて、続いては、前章で述べたおとボクが「マリみてのパクリ」と称される理由について、おとボクの立場でもう少し観察したいと思う。
マリみてに特徴的なのは姉妹(スール)関係であるが、それに限らず女の子同士の友情がキーワードとなっているのは前章で述べたとおり。そして、これらを構築するための要素は、おとボクにも存在する。ここでは、要素分解を行うために、マリみてとの対応付けを行うが、作品が違うことから完全な対応はとれないことに注意されたい。
2.2.1. 瑞穂を二条乃梨子の立場にみる場合
瑞穂は外部編入生という異質な立場でありながら、その類い希なる能力を用いて、急速に学院になじんでいく。この様子は一貫校であるリリアンに外部受験し、アウトローの立場から白薔薇のつぼみとなり、学園になじんでいった乃梨子と立場を同じくする。
御門まりや:瑞穂を入学させ、入学後の瑞穂を導く。しかし、いつしか立場が逆転し、瑞穂に導かれる立場となる。このことから、まりやは松平瞳子と立場を同じくする。
十条紫苑:瑞穂の正体を看過した後、御門まりやとともに、入学後の瑞穂を導く。また、将来への悲観から人を遠ざけていたところ、瑞穂の力により周囲に心を開くことに成功した。このことから、紫苑は藤堂志摩子と立場を同じくする。
2.2.2. 瑞穂を福沢祐巳の立場に見る場合
また、瑞穂はその人柄をクラスに受け入れられ、級友達とも良い関係を築き上げる。これは、福沢祐巳が山百合会に飛び込み、築き上げてきた人間関係に近い。
十条紫苑:よく言えば高貴な、悪くいえば近寄りがたい、人を遠ざける雰囲気を元々持ち合わせていた。前述したとおり、瑞穂の力によりその雰囲気を和らげ、周囲とのコミュニケーションを正常化できた。福沢祐巳の影響を受け、成長著しい小笠原祥子の立場としても見ることができよう。
また、別の視点もある。六万円のパッドに釣られて(あるいは、釣られたふりをして)瑞穂とスキンシップを取ろうとする様子は、佐藤聖のそれともたとえることが出来る。
小鳥遊圭・高根美智子:ストーリーには絡まないものの、瑞穂の級友として、そしてアドバイザーとして良い交流をかわす。性格や手法こそ全く違うものの、積極的な影響を与えに行く圭は島津由乃の、ゆっくりと待ち的確なアドバイスを与える美智子は志摩子の立場として見ることができる。
2.2.3. それ以外の関係性
さて、上記に出ていない主要キャラクターは、厳島貴子、周防院奏、高島一子、上岡由佳里の4名。では、彼女たちをどう解釈すればよいのか。
まず、厳島貴子であるが、マリみてにはそもそも対立構造が存在しないため、貴子のキャラクターがもたらす主要構造である「対立構造をぶちこわす」演出がマリみてでは不可能。したがって、瑞穂と貴子の関係に類似する関係は、マリみてには存在しない。もっとも、おとボクでもこの対立構造は本質的意味がなく、貴子の堅物キャラ(エルダー選挙)や嫉妬心(十月革命)を描くためのツールに過ぎない。この意味では、山百合会(祐巳)と新聞部(真実)の関係になぞらえることも不可能ではないが、これは牽強付会か。
続いて、周防院奏であるが、一般的に瑞穂と奏の関係がもっともマリみてらしいとされる。奏は瑞穂のお世話係すなわち「妹」として瑞穂とともに行動し、瑞穂は奏を指導する立場すなわち「姉」として奏の行動に責任を持つこの構造は、マリみての姉妹制度そのものである。ただし、瑞穂と奏の姉妹においては、奏から瑞穂への影響や知識の伝授も少なくないことに注意する。この意味で、瑞穂と奏の関係は、マリみてにおける祥子と祐巳の関係に近い。
なお、参考まで、主要キャラの在学期間(判明分)は、まりや・貴子・美智子>奏>(壁1)>圭>(壁2)>由佳里>瑞穂、となっている。
高島一子についても、基本的には奏と同じ立場・関係性である。ただし、一子の場合、瑞穂を男性と認識しているため、マリみてのような「姉妹関係」の匂いは薄いため、関係性を学園の外、すなわち祐巳と祐麒の関係におく(祐麒は祐巳に対する良いアドバイザーとして働くことが多い)。
最後に、上岡由佳里であるが、実は瑞穂との直接的関係は、同じ寮に住んでいる下級生という包括的なものだけである。ゆえに直接的に明示できる関係は存在せず、瑞穂と菅原君枝の関係同様、「友達の友達は皆友達だ」のような関係性となってしまう。もちろん、お互いの努力と相性によって、それが良い関係に発展することも多い。当初段階では、マリみてにおける祐巳と内藤笙子の関係、あるいは由乃と瞳子の関係が比較的近いか。
また、キャラクター単独として瑞穂と由佳里を比較した場合でも、積極的な誰かにいじられることで光るおとなしい性格が共通していることも、直接的な関係構築を難しくしている(ゲームにおいては、瑞穂の成長によりこの難題を解決している。瑞穂の成長物語としての一面が強く表れる場面の一つでもある)。
2.2.4. まとめ ――友情を育むための仕掛け
以上のように、マリみてとおとボクでは舞台装置ばかりでなく、人間関係まで似ていることが発覚した。また、マリみてになくおとボクに存在する要素として、ライバル(貴子)があるが、対立軸を造ることで強い友情を、それを壊すことで広い友情を手に入れることができる。
上記では考察を省略したが、ヒロイン同士の関係性においても、マリみてに類似の関係は多く存在する。
マリみてでは時間をたっぷりかけることで友情を育ててきたが、おとボクでは時間が不足しているため、友情を育てやすいイベントの構造をとる。これの善し悪しについては意見は多くあると思うが、本章の主張から離れるため議論を避ける。
では、恋愛についてはどうなのだろうか。次からの三節において、恋愛についての考察を、いくつかの立場から行う。
2.3 異性愛という祝福 ――厳島貴子、高島一子
まずは、一番わかりやすいところから。男女の恋愛を正とし、女性同士の恋愛を見ることが出来ない場合について考える。
貴子においては、瑞穂に恋したと自認する頃から、女性同士の恋愛に関する異常性について思い悩んでいた。そんなときに、瑞穂が男性であることを知り、自らの感情が正常であると認識する。その後、いわゆる「デレモード」の状態では、行き過ぎた甘えと嫉妬、そしてそれに対する反省が行動の主軸に置かれる。そこでは、瑞穂をただひたすらに男性として見る視点ばかりが存在し、瑞穂がそれを咎める場面すら存在する。
「ここは女子校で、私は女生徒なんです……女の子と話している度にこれでは、身が保ちませんよ……?」――宮小路瑞穂(処女はお姉さまに恋してる)
また、一子においては、幸穂の婚約に対する言い訳が同性愛への見解に否定的影響を与えた様子がある。
「そうね、私が男だったら、一子ちゃんをお嫁さんに出来るのにね」――宮小路幸穂(処女はお姉さまに恋してる)
そして、ありえないはずの「男性である宮小路幸穂」が、幸穂の息子という形で実現してしまった。もちろん、原作Interlude以降は一子も瑞穂をそのままの姿で見るわけだが、ノーマルエンドでは、自らを性欲処理のツールと宣言する一幕も存在し、瑞穂のことをずっと男性として見ていたとの解釈も可能である。
「わ、私を…その……えっちな本代わりになさって下さいませんかっ?!」――高島一子(処女はお姉さまに恋してる)
貴子・一子のどちらにせよ、瑞穂が男性であるという事実が恋愛の推進に主要な役割を果たし、瑞穂とプレイヤーは男性としての性自認を取り戻す(それが危険なことであるにもかかわらず!)。
この二つのシナリオは、サブキャラがそれほど生きない点が特徴となる。通常のエロゲーにはごく普通のことであるが、他のヒロインのシナリオと違い、マリみてに近い「女の子の広い友情」が全く効いてこない。
これを逆読みすると、貴子・一子は、まっとうなエロゲー/ギャルゲーの構造を残した数少ないシナリオである、ということが分かる。このため、貴子と一子の人気の高さについての説明はきわめて容易である。
2.4 異性愛という原罪 ――周防院奏、上岡由佳里
続いて、人気の意味で報われないヒロインの二人である。シナリオのレベルは高いと評価されるも、瑞穂に感情移入すればするほどプレイヤーの受ける傷が深くなるのがこの二人のシナリオである。
奏シナリオにおいては、瑞穂と奏は何度も肌を重ねる(少なくとも4回、3回目が「幾度となく」のうちの1回とされているため、実際は遙かに多い回数と推測される)が、奏に対して瑞穂が性別を明かすのは最後の1回である(!)。それまでの間は、瑞穂が隠している秘密が重くのしかかる「レズ行為」であり、そこで育てているのは「女の子同士の恋愛感情」である。必然、瑞穂の心中は穏やかでなく、幾度となく罪悪感に押しつぶされそうになる。そして、瑞穂の抱える罪悪感を、奏は自らのわがままという形で解放する。
「それでも…それでもお姉さまは、自分の嘘が許せなくて、奏を捨ててしまうのですか………?」――周防院奏(処女はお姉さまに恋してる)、瑞穂の告白を受けて
いっぽう、由佳里シナリオにおいては、瑞穂の男バレが最悪のタイミングでやってくる。女の子同士で結ばれる直前、キスした直後。その後、第8話のクライマックス直前まで、由佳里はその事実に苦しみ続け、相談するべき相手が誰も由佳里の言葉を肯定しない(それもそのはずで、由佳里の気持ちは瑞穂の全肯定であり、由佳里の言葉を肯定した瞬間に由佳里の気持ちを否定するパラドックスが待ち受けている)。このとき、精神的に追い込まれている人間の言葉に少しでも否定要素を持ち込むことは、その人の全否定を意味するため、状況と本心が真逆を向いている由佳里を完全肯定することは論理的に不可能である。
「どうして……どうして私があんな事云われなくちゃいけないの?!」――上岡由佳里(処女はお姉さまに恋してる)、紫苑の助言を受けて
そして、由佳里がとった気持ちの整理方法は、瑞穂を好きという気持ちで、性別という欠点を捨て去ることである。
「はい……だって、瑞穂さんは瑞穂さんで……ここに、この世界にたった一人しかいませんから……だから、瑞穂さんが女の人でも、男の人でも……へんたいさんでも、いいです……だって…大好きだから………」――上岡由佳里(処女はお姉さまに恋してる)
奏と由佳里の二人のシナリオに共通することは、瑞穂が男性である事実が、恋愛の成就への大きな障害となっている点である。
正確には、真実の障害は瑞穂の性別ではなく、ヒロインに対して「嘘を付いている」点である。しかしながら、(1)瑞穂が男性であるがため嘘をつき通す義務が課せられている、(2)「嘘を付いている点が真の障害」と気がつくまでに時間が掛かる、の2つの理由から、瑞穂が男性であることは恋愛成就の障害と言って差し支えない。
由佳里の場合はヒロインの拒絶という形ゆえわかりやすいが、奏の場合は主人公の持つ罪悪感が障害となっている。どちらにせよ、瑞穂が男性である事実が、恋愛で乗り越えるべき最大の壁として立ちはだかるのだ。
2.5 弁証 ――御門まりや、十条紫苑
瑞穂が男性であることに関して、2.3節では肯定の立場で、2.4節では否定の立場で描かれるシナリオをヒロイン二人分ずつ見てきた。では、残りの二人はどのように解釈すればよいのだろうか。
他のヒロインとの差別化ポイントとして、この二人はシナリオが始まる前から瑞穂を男性と知っていることが挙げられる。
まりやシナリオにおいては、作品内作品の映画「ウェービング・ストーリー」で外国に旅立つ男に、ついていく女と残る女を象徴的に描いているところ、エンディングにおいては、ヒロインであるまりやを外国に飛ばし、瑞穂は国に残ってひたすら待つという、物語テンプレートでの性別役割を逆転させている。そこに至るまでの過程として、瑞穂を「かわいいけど情けない男の子」から「心の底から格好良い男の人」に成長させ、さらには完全に男女の関係として結ばれたにもかかわらず、である。また、「やるきばこ」に収録された追加シナリオ「卒業旅行に行きましょう」では、まりや×由佳里のレズシーンが存在することから、まりやが性別を気にせず、個性を気にするタイプの人間であることも推測できる(注意として、まりやと絡むときの由佳里は「かわいいけど情けない女の子」として、初期の瑞穂にかなり近い性格を持つ)。
「そうだね、あたしは女で、瑞穂ちゃんは男で……でもね。あたしは、瑞穂ちゃんとそういう関係にはなりたくないんだ」――御門まりや(処女はお姉さまに恋してる)
紫苑シナリオは、おとボクで最初の追加シナリオと呼ばれることもあり(根も葉もない噂ではあるが、企画段階では紫苑シナリオは存在しなかったとの話も聞こえている。これを示すかのように、同ブランド「うつりぎ七恋天気あめ」においては、幼なじみの女の子「天矢鮎乃」をメインヒロインとするシナリオは存在しない。また、「シャマナシャマナ〜月とこころと太陽の魔法〜」のヒロイン「ラビ・ロス」をメインヒロインとするシナリオは、「やるきばこ」のシナリオとして後に追加されたものである)、シナリオのクライマックスは伏線に満ちている。単語だけ並べれば、「鏑木家」「キリンの消しゴム」「厳島家」「病気」「奨学生」「修身室の鍵」「ドアの外」など、序盤や他のシナリオなどで使われてきた構図を多く見せている。当然、異性愛と同性愛についてのからくりも存在するのだが、瑞穂と紫苑のふたりをこの順番で、「男と女」「女と男」「男と男」「女と女」の関係すべてが描写されていることを以下で示す(ただし、恋愛関係とは限らない)。
まずは、「男と女」の関係描写だが、物語序盤においては、学院に慣れない瑞穂の正体をいち早く見破り、導く役割を担う。物語終盤においては、十条紫苑という一人の女性を巡って、鏑木瑞穂と厳島兄はお互いを認識しないまま、紫苑を巡って対立する(そして瑞穂が勝利を収める)。ただし、あくまで「最初と最後だけ」がこの関係描写にふさわしいことに注意する。
続いて、「女と男」の関係描写。CD-ROM版のパッケージ絵を見ていただきたい。先入観なしで、右の人と左の人、どちらか片方が男であるとして問題が出された場合に、「左の人」と誤答した事例は多い。また、これを裏付けるかのように、終盤、瑞穂は紫苑に「バレンタインチョコ」を渡している。
「男と男」の関係描写は、多少特殊な方法を用いる。演劇「ロミオとジュリエット」である。この中で、紫苑は口の達者で気障な青年マキューシオとして、小鳥遊圭のアレンジのもと、ロミオ=瑞穂の友人を演じることに成功している。
最後に、「女と女」の関係描写だが、瑞穂を友人と定めたその日から、学校生活の殆どを「女と女」の関係で過ごす。ロッカーでの胸パッド遊びから、お見舞いから、文化祭から、何から何までである。それも当然で、両者ともに女らしさが徹底して求められる「エルダーシスター」の立場にいるためである。
このように、この二人を男女で見るときにはいろいろな描き方が存在しているため、性役割の視点からキャラクターを一意に定めることは、特に議論を行う際に危険である。
「瑞穂さん……あなたはさっきから男だって云ってみたり女だって云ってみたり……都合が良すぎますよ」――十条紫苑(処女はお姉さまに恋してる)
2.6 まとめ
まず、2.1節では、瑞穂が男性であるがゆえに女性としての性自認を持たされることについて検証した。続いて、2.2節では、女の子の世界として、マリみてに類似した、友情ベースの世界観の構築を確認した。2.3節から2.5節にかけて、恋愛の形としてのおとボクについて考察した。
恋愛の考察において、瑞穂の性別は「男性のほうがよい」「女性のほうがよかったが、その壁を乗り越えた」「そう、かんけいないね」の3パターンが存在することを示した。
このパターニングを直感的に受け入れると、宮小路瑞穂は男性として、そして、女性としての両面から恋愛が可能であると推測される、果たしてこの解釈が正しいのであろうか?
反論は、おとボクの中にある。冒頭でも引用した言葉であるが、再度引用する。
「恋愛は心でする物であって、性別でする物ではありませんよ?」―― 十条紫苑(処女はお姉さまに恋してる)
また、同様の主張は、より厳しい体験をくぐり抜けた教師によっても示されている。
「好きになるのは理屈じゃないわ。相手がどんな人間でも、好きになってしまえば関係ないの……性別だって、年齢だって、本当はきっと全然関係ないものなのよ」―― 梶浦緋紗子(処女はお姉さまに恋してる)
そう、瑞穂の実性別は、おとボクという恋愛物語において、本質とはほぼ無関係なのである。であれば、その「百合っぽい」関係を本物の「百合」関係と区別することに、何の意味があろうか。
[…] かと結ばれなければならない(この記述を含め、本章は百合を一切否定しない。詳しくは後述する)。 普通のエロゲーであれば、都合良くヒロインとくっつけて他の登場人物に退場願 […]
[…] ―― “Love” is only a strong word of “Like”】 【2:男なのにお姉さま、男女の恋愛なのに百合? ―― see the boy in a viewpo… 【3:「可愛い」は、女の子の特権じゃない ―― to be pretty is justice, even […]
だめだめ。おと僕は何か、と言う点に関して根本から理解が必要。おと僕とは根本的には「ご都合主義」の話。ご都合主義、とはすなわち、物事が常に論理だってあるのではなく、場合によって都合の良い展開になる、ということ。瑞穂が女装すると言うのはその典型であり、瑞穂が女性的になったり、男性的になったりするスイッチの入れ替えは文字通りご都合主義、が源泉。
たとえば常に女性としての振る舞い、と言えば渡良瀬準などがあるが、これに感情移入できる男性は少ないというのは想像に難くない。理由については男性が女性キャラに感情移入することは難しい、で十分だろう。感情移入とは精神的なものだから、設定上の性別より精神上の性別のほうが重視されるのは想像に難くない。
それに対し瑞穂は精神的に男性であり、しかしありえないほど女性として振舞える。それを違和感なくさせるために作者が(無意識か意識的かはわからないが)行っているのが、第一に雰囲気作り、第二にコメディ、がある。
普通に瑞穂の状況はまずありえない。ありえないことに感情移入はしにくい。
ゆえにまず雰囲気作りが大事になる。ありえないことが起こってもおかしくない状況、それが起こっても違和感が薄れる状況。それがいわゆるお嬢様学校、という舞台である。これは単なる女子高ではなく、お嬢様学校、という点が大事だ。そこは文字通り男性にとって未知の領域であり、それ故、何が起こってもおかしくない、という説得力が生まれる。また、おと僕はさらにその「お嬢様学校」という雰囲気を、音楽、文章、から、細かい演出、まで徹底させることによって、視覚、聴覚からその独特の雰囲気を一貫したものとして作り上げている。
そしてそれでどうなるかと言うと、「その流れにあるものはすなわち違和感のないものである」、「この雰囲気に合わせて行動するのは当然である」という意識をプレイヤーに与える結果を生み出すのである。(逆に言うと、雰囲気に合わないものはいらないものに見えてしまう。夏のあれこれがいらないと言われるのは、雰囲気ぶち壊し&流れ無視の傾向が強いからだろう)
結果、雰囲気にあえば多少おかしくても気にならないし、男性であってもあそこに行けば女性のように、より正確に言えばお嬢様のように振舞うのが当然、という意識になる。実際おとぼくレビューの中には多数、「お嬢様な言葉遣いで書かれたもの」が多数あり、おと僕の雰囲気に飲まれるとどういった思考になるかを良くあらわしていると言える。
またコメディも大事だ。たとえばよくあるシーン、瑞穂が女性として振舞った後orzとなり、反省するコメディの演出。これは何かと言うと、作者からプレイヤーに対する、「瑞穂は女性ではありませんよ、男ですよ、だから安心して感情移入してください」というメッセージである。
おと僕は瑞穂が女性として振舞う場合が多いため、そのままだと瑞穂が女性に見えてしまう。かといってお嬢様学校と言う不思議空間の雰囲気作りを大切にしている以上、男性を前面に押し出すわけにはいかない。そこで雰囲気を大事にしたまま瑞穂が男性であるとプレーヤーに意識づけるために行われているのが、女性としての振る舞いを「ボケ」として使ったコメディ、すなわちorzの演出であったり、まりや、緋紗子のからかいがそうであり、そうすることで瑞穂を男性として意識させ、かつコメディにすることで、それで雰囲気を壊さない、という微妙な演出をしているのである。
また一子にしても、幽霊、という突拍子もない存在が許されるのは、彼女が基本コメディで描かれているからであり、たとえばあのマシンガントークもまた彼女のコメディ性を表現するものである。
もうひとつ大事なことは瑞穂と言う主人公の特殊性だ。たとえば瑞穂を男と認識すると、瑞穂の行動は女性としての演技、ということになる。しかし、実際瑞穂は女性として振舞わなくとも十分女性らしく、女性として振舞う際も完全になりきっている以上、単純に「演技である」とは言いがたい。というより、その展開を無理なく行える人物像として瑞穂はあるといえる。これを言葉で説明すると、半陰陽的男性というのが最も適切であろうと思われるが。その上で都合のいい場面で瑞穂は女性的になり男性的になるわけで、その「都合のよさ」を支えているものがご都合主義、コメディ、雰囲気作り、であると思う。
瑞穂は女性としての自意識を持っているか、と言う点に関し、私はnoであると考える。女性としての行動は女性だけが取るものか、と言う問はほとんどの場合肯定されるが、こと瑞穂に関する限りこれは否定される。瑞穂は男性でありながら女性として行動できる存在、として生み出されており、その前提がある以上、瑞穂は性としても精神的にも女性ではないというのが原点にある。男性ともずれがあるように思えるが、少なくとも普段の瑞穂は男性として許容範囲内であり、基本的に瑞穂が精神面まで女性化するのは他人に対し「お姉さま」として振舞うときだけである。
実際「お姉さま」と言う象徴的存在に関する考察は必要であろうが、ひとついえることは、お姉さまの状態である瑞穂は極めてよく幸穂に似ていると言うことである。奏に対する振る舞いがもっともそれを良く表しており、母性、慈愛とも言うべき姿は女性を超えた女性といえる。無意識に亡き母親を求めていたと言う象徴なのか、自らの女性を意識したときに自然と出てきたものと理解すべきか、ただの偶然か、真実は作者のみが知るということだろうか。どちらにしても瑞穂と言う人間の設定はかなり都合がいいので極めて女性的に振舞おうともそれは「瑞穂の性」の範囲内であると言えるだろう。どちらにしても、主人公瑞穂は男性であり、プレイヤーもターゲットは男性である以上、こと瑞穂とかかわる恋愛要素において百合であるとは言いがたいだろう。百合にしたいなら最初から瑞穂を女性にすればよかっただけであり、それをしていない、というのが百合否定の証拠である。
基本的に瑞穂の行動が女性であると言うのは間違いない。しかしだからといってプレイヤーに女性としての自意識は必要ない。もしそれが必要ともなればあまりに人を選んでしまう。それを回避し売れるものを作るために腕を振るうのがライターや演出であり、そのために行われているさまざまなことにもうすこし注目すべきだろう。
なぜ瑞穂は自分を「ぼく」というのか、(私的には「わたし」でも問題ない範囲であると思うが)ライターにとってそれは大事だったのである。そういう意味ではフルボイス版で瑞穂に声を入れてしまった点はファンが求めたものとはいえ、作品全体の問題として若干評価が難しい点だ。(少なくとも初期版とは瑞穂の印象が変わってしまう危険性がある)
瑞穂を男という前提を失わさせずに限りなく女性化させることを肯定させる、非常に難しいがそれを成功させたライターはすばらしい。
百合でなくてもいい作品です。いや百合シーンはたくさんありましたけどね。
ちなみにこれは百合=同姓への性愛、とした場合の意見です。百合が女性同士の強い友情(仲直り後のまりあ、貴子のような)とか女性同士の親愛の情(お姉さまを演じる瑞穂、奏のような関係)、を百合というなら、間違いなくおと僕は百合です。とりあえず私的には全部男女逆にして考えたとき(面白いよ)、友情を超えるものでないと思われるときは百合じゃないとおもうので百合っぽい作品であって百合ではないと思いますよ。少なくとも男女反転して考えたときは、ホモっぽい作品ではあったけどホモ作品ではありませんでした。
まりやさん
コメントありがとうございます。
本稿についてのご指摘ありがとうございます。
本稿といただいたコメントについて、対立点ごとに意見を述べさせていただきます。
<おとボクの「ご都合主義」の意味>
「ご都合主義」の意味合いですが、私は「都合の良い『設定』を持ち出す」ことがその意味であると考えているため、まりやさんの指摘する「論理(文脈)を切り替えるスイッチ」の存在については懐疑的です。
「誰得」という一言で理由の説明は終わりますが、時代考証が必要ゆえ分かりづらいので補足します。
CD版発売の時期を考えたとき、おとボクにど真ん中ストライクというターゲットは、少なくとも誰でも分かる形には可視化されていませんでした。女装少年ものがこれ以降目に見えて増えてきたのも、おとボク(、および、はぴねす!)が潜在的なターゲットを発見したことが原因と推測されます。
ソースは忘れましたが、このときライター氏は「なぜ売れたか分からない」旨のコメントをされていました。このライターさんが本質的にリップサービスのできない方だ、というのは別途はっきり分かる場面がありましたので、売れた理由が本当に分かっていなかったことに議論の余地はありません。
論理の切り替えでこのような雰囲気を意図的に作り出すには、本文でも引いているtakayan「おとボクの萌え構造」による分析、および、その後の「恋する乙女と守護の楯」「るいは智を呼ぶ」「花と乙女に祝福を」などの作品による実証が不可欠であると言えます。
<感情移入の可能性について>
まりやさんは、「しかしだからといってプレイヤーに女性としての自意識は必要ない。もしそれが必要ともなればあまりに人を選んでしまう。」と述べられていますが、私の見解は、「実際に、プレイヤーに女性としての自意識が必要だった。ゆえにあまりに人を選ぶ作品となってしまった」というものです。このままでは誤解を呼びますので、以下に詳細を説明します。
女性としての自意識を得る話の流れとして、
・ゲーム開始段階では、女性としての自意識は必要ない。
↓
・男性としての自意識を盾に、女性としての自意識を持つことを強要される。 (祖父の遺言、その他第1話)
↓
・当然持っている男性としての自意識と、持つことを強要された女性としての自意識が競合する。 ( orz )
という流れを仮定しています。
ゆえに、プレイの途中で女性としての自意識を『後天的に・強制的に獲得する』、というのが本論です。
むろん、まりやさんご指摘のように、「普通に瑞穂の状況はまずありえない。ありえないことに感情移入はしにくい。」点を否定するものではありません。ですが、「ゆえに、感情移入せずに楽しめるように作ってある」という自然な論理展開を、おとボクは私に許していないように思っています。
すなわち、私は「感情移入は難しい。だが、それでも、おとボクを楽しむためには感情移入が不可欠である」という、ハードルの高い立場に立脚した議論をしているのです。ただ、おとボクが最初にターゲットとしている、「マリみてに親しんでいる(=「福沢祐巳」という女性への感情移入に違和感のない)成人男性」を中心とした、物語を読み慣れた人間にとって、このハードルを飛び越えることはさほど難しいことではありません。
<その他の対立点>
瑞穂の立場や百合に関する考えなど、上記2点の対立軸以外の部分は大筋で認識が一致していると思われます。あとは、解釈のための細かい判断基準が違う程度でしょう。
# ただし、上記対立軸は物語の読み方として致命的な差を生むので、ゆえに結論はまるで異なっています。
以下、詳細として気になったところを。
> お嬢さま学校が未知数である
マリみてとの比較論を成立させた立場としては、お嬢さま学校という舞台装置に未知数を感じておりません。また、お嬢さま学校そのものは、アダルトゲームの舞台としては決して珍しいものではないことも示します。(例: Symphony soft 「お嬢様組曲」2005/4 など)
舞台をお嬢さま学校としている理由は、女子校でありながら(社会の求める)女性らしさを尊重する校風を保証するためであり、「秘密の花園」的な未知数を感じさせる舞台とするには、瑞穂は真面目に過ぎるでしょう。
> 百合にしたいなら最初から瑞穂を女性にすればよかっただけであり、それをしていない、というのが百合否定の証拠である。
この考察には、全体の論旨から強く反対させていただきます。
ホモセクシャル(百合)とヘテロセクシャル(男女間恋愛)に関する基礎的な議論は非常にナーバスなものですが、本稿を部分とする全体の考察として、『性別は本質ではない』という議論を徹底して行っているつもりです。
しかし、『性別が本質である』との、常識的(すなわち狭量な)立場を無条件に受け入れてしまうことで、ホモ・ヘテロの対立軸が『本当に存在するのか(存在して良いのか)』という検討をなされないまま結論が導かれることに、強い危惧を覚えます。
すなわち、私の立場として、「ノーマルか百合かBLか?」の質問には、「こまけぇこたぁいいんだよ!」という回答を準備させていただく、ということになります。
したがって、私の論旨として、瑞穂を男性とすることは、百合の否定にはまるで結びつかない。どころか、「百合の否定に結びつける論理のほうがおかしい」というのが回答になります。
> 全部男女逆にして考えたとき(面白いよ)
実際にやってみたら、おとボクの世界観全体が崩壊しました (TT
瑞穂ちゃん(♀)に誰も干渉しないわ、すごいところ見せつけても「ふーん」で終わるわ、エルダー制度に誰も興味ないわ…… orz
本来であれば、距離感を親しみやすいものに変えることで考察を簡単にする、非常に優れた方法論だと思います(女性の距離感をそのまま持ち込んでしまうとBLになるので注意が必要ですね)。
ただ、私の場合は実体験から、男性社会でエルダーシスターや姉妹制度のような「特別な存在・関係」を成り立たせるのは非常に困難である、という認識を持っているため、上記のような世界観崩壊が発生したのでしょう。
したがって、考察結果の適用はきわめて慎重に行う必要があると考えます。論理の問題としても、「AならばB」は「BならばA」を保証しませんので、考察結果の逆変換に骨が折れることになりそうです。
なお、本論の前提認識は、takayan「おとボクの萌え構造」に根ざしていますので、ご一読いただくことをお勧めいたします。
http://takayan.otbk.proj.jp/moe/index.shtml